「松村文祥を送る序」
松陰全集第一巻収載:69頁 未忍焚稿:弘化三年(1846)
これは同学の松村文祥が安芸へ修業に行くので書いたものである。
松陰の同学(松下村塾での)に書き与えた「送序」である。送序というのは、人が旅立つときに、その人への期待や旅の意義、安全等を書いて「贈る言葉」である。
松陰は生涯に30通あまりの「送序」を書いている。特に松下村塾時代の門下生への「江戸や京阪への遊学」には、心を打つものが多く、村塾の教育方法の大きな柱でもあった。
ここで注目したいのは、この文に「志」という語が6回も使われている。後年「志を立てて以て万事の源と為す」という名言を遺したが、学問、修業にあたって「志」を重んじた証である。ここでは「医学修業の旅立ち」だが、これが成功するか否かは「志」如何であるといっている。松陰は17歳で、自身も山鹿流兵学師範の修業に勤しんでいた時期である。おそらく、自分にも言い聞かせながら書いたに違いない。
「志」に注目しながら読んでほしい。
では原文を下記する。
夫れ農工商賈にして其の業を成さざる者、十に一二もなし。豈に彼れ皆才且つ知ならんや。士たる者にして其の道に精しからざる者、十に蓋し八九あらん。豈に此れ皆不才不知ならんや。蓋し亦故あるのみ。
蓋し士たる者は禄を公上に食み、耕さずして粒米以て腹を充たすに足り、織らずして布帛以て身を蔽ふに足る。故に生まれては則ち逸し、復た憂勤の心あることなし。是れ其の道に精なる能はざる所以なり。彼の農工商賈は則ち然らず。一たび其の業を墜さば、則ち仰ぎては以て父母に事ふるなく、俯しては以て妻子畜ふなし。故に其の此れを為すや志を致す。是れ能く其の業を成す所以なり。
然らば則ち道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは志の立つと立たざるとに在るのみ。故に、士たる者は其の志をたてざるべからず。夫れ志の在る所、気も亦従ふ。志気の在る所遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし。松村文祥は、家、医を世々にし儒を兼ぬ、厥(そ)の紹、夫れ念はざるべけんや。儒や、鬼神の幽遠、性命の蘊奥よりして、下文章緒余の事に至るまで兼ねざるなし。
苟も其の學を之れ純正にせざれば、則ち上は以て主心の非を格(ただ)すなく、下は以て同僚の善を責むるなし。医や、疾病の因、薬石の功より以て針灸の細に至るまで漏らす所なし。苟も其の病を之れを審密にせざれば、則ち人の非命を致す。其の任亦甚だ重からずや。夫れ重きを以て任と為す者、才も以て恃みと為すに足らず、知も以て恃みと為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉(びんべん)事に従ひて後可なり。
文祥、松下村塾に寓すること茲に一年、常に灯を分ちて読み、席を同じ寝ね、朝夕相警励(けいれい)す。今将に去って医を芸に学ばんとす。一別の余、離隔(りかく)すること其の幾年なるを知らず。豈に一言の贈なかるべけんや。因って朋友切偲(せっし)の義を慕ひ、聊(いささ)か思ふ所を陳べ、以て之れが序と為す。
註:黽勉(びんべん)=努め励むこと。
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