留 魂 録
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士
一、 余去年已来心蹟百変、挙げて数え難し。就中趙の貫高を希ひ、屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」と云うも此の事なり。然るに五月十一日関東の行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る。余是を用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是れを評定所の留め置きしも吾が志を表するなり。去年来の事、恐れ多くも、天朝.幕府の間、誠意相孚せざる所あり。天苟も吾が區々の悃誠を諒し給はば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊蝱山を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、吾が徳の菲薄なるによれば、今将た誰れをか尤め且つ怨まんや。
一、 七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件両條あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、何の密議をなせしや。二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似たりと、源次郎其の外申立つる者あり。覚ありや。是の二條のみ。夫れ、梅田は素より奸骨あれば、余與に志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に落文なんどの隠昧の事をなさんや。余、是に於て六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。
一、 吾が性激烈怒罵に短し、務めて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。是を以て吏に對して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後當今均當の處置に及ぶ。其の説常に講究する所にして、具さに、對策に載するが如し。是を以て幕吏と雖も甚だ怒罵すること、能はず、直に曰く、「汝陳白する所悉的當とも思はれず、且つ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり」。余亦深く抗せず、「是を以て罪を獲るは萬萬辭せざる所なり」と云ひて已みぬ。幕府の三尺、布衣、國を憂ふることを許さず。其の是非、吾會て辯争せざるなり。聞く、薩の日下部以三次は對吏の日、當今政治の缺失を歴詆して、「是くの如くにては往先五年の無事も保し難し」と云ひて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。是れ吾れの及ばざる所なり。子遠の死を以て吾れに責むるも、亦此の意なるべし。唐の段秀實、郭義に於ては彼れが如くの誠悃、朱に於ては彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措の宜しきあり。要は内に省みて疚しからざるにあり。抑々亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。吾れの得失、當に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。
一、 此の囘の口書甚だ草々なり。七月九日一通り申立てたるのち、九月五日、十月五日両度の呼出しも差したる鞠問もなくして、十月六日に至り、口書讀聞せありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使應接、航海雄略等の論、一も書載せず。唯だ数個所開港の事を程克く申し延べて、國力充實の後、御打拂ひ然るべくなど、吾が心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。吾れ言ひて益なきを知る。故に敢へて云はず。不満の甚しきなり。甲寅の歳、航海一條の口書に比する時は雲泥の違と云ふべし。
一、 七月九日、一通り大原公の事、鯖江要駕の事等申立てたり。初め意へらく、是れ等の事、幕にも已に諜知すべければ、明白に申立てたる方却つて宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一圓知らざるに似たり。因つて意へらく、幕にて知らぬ所を強ひて申立て多人数に株連蔓延せば、善類を傷ふこと少なからず、毛を吹いて瘡を求むるに齊しと。是に於いて鯖江要撃の事も要諌とは云ひ替へたり。又京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等成るべき丈けは隠して具白せず、是れ吾れ後起人の為めに區々の婆心なり。而して幕裁果して吾れ一人を罰して、一人も他に連及なきは實に大慶と云ふべし。同志の諸友深く考思せよ。
一、 要諌一條に付き、事遂げざる時は鯖候と刺違へて死し、警衛の者要蔽する時は切り拂ふべきとの事、實に吾が云はざる所なり。然るに三奉行強ひて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾れ肯へて受けんや。是を以て十六日書判の席に臨みて、石谷池田の両奉行と大いに争辯す。吾れ肯へて一死を惜しまんや。両奉行の権詐に伏せざるなり。是れより先き九月五日、十月五日両度の吟味に、吟味役まで具さに申立てたるに、死を決して要諌す、必ずしも刺違へ.切拂ひ等の策あるに非ず。吟味役具さに是を諾して、而も且つ口書に書載するは権詐に非ずや。然れども事已に爰に至れば、刺違へ.切拂ひの両事を受けざるは却って刺激を欠き、同志の諸友亦惜しむなるべし。吾れと雖も亦惜しまざるに非ず、然れども反復是れを思へば、成仁の一死、區々一言の得失に非ず。今日義卿奸権の為めに死す、天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん。
一、 吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至りては略ぼ一死を期す。故に其の詩に云ふ、「継盛唯當甘市戮倉公寧復望生還」と。其の後九月五日、十月五日、吟味の寛容なるに欺かれ、又必生を期す、また頗る慶幸の心あり。此の心吾れ此の身を惜しむ為に発するに非ず。抑々故あり。去臘大晦、朝議巳に幕府に貸す。今春三月五日、吾が公の駕巳に萩府を発す。吾が策是に於て盡き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り、天下の形勢を考察し、神國のこと猶ほ為すべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。吾れ若し死せずんば、勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし。是れ亦平生學問の得力然るなり。
一、 今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、醴を為り、村野歓謦あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず實らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀實の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人壽は定まりなし。禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪古をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲するなり。
斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時巳に備はる、亦秀で亦実る、その秕たるとその粟たると吾が知る所に非ず。もし同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち
後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。
一、 東口揚屋に居る水戸の郷士堀江克之助、余未だ一面なしと雖も真に知己なり、真に益友なり。余に謂って曰く、「昔、矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して敵讐を詛ひて死し、果たして敵讐を退けたり。今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、一心を残し置きて給はれよ」と丁寧に告戒せり。吾れ誠に此の言に感服す。又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、少子は海外に赴けば、天下の事総べて天命に付せんのみ、但し天下の益となるべき事は同士に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾れの祈念を籠むる所は同志の士甲斐々々しく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり。吾れ死すとも堀.鮎二氏の如きは海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交りを結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり。義を好む人と見えて堀.鮎二氏の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事二子より申し遣はしたれば、小林の為にも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん、且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
一、 堀江常に神道を崇め、天皇を尊び、大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんと欲す。謂へらく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如かずと。余謂へらく、教書を開板するに一策なかるべからず。京師に於いて大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示し、又天下の奇材異能を京師に貢し、然る後天下古今の正論確儀を輯集して書となし、天朝御教習の余を天下に分つ時は、天下の人心自ら一定すべしと。因って平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合せ堀江に謀り、是れを子遠に任ずることに決す。子遠若し能く同志と謀り、内外志を協へ、此の事をして少しく端緒あらしめば、吾れの志とする所も亦荒せずと云ふべし。去年勅諚綸旨等の事一跌すと雖も、尊皇攘夷苟も已むべきに非ざれば、亦善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論亦奇ならずや。
一、 小林民部云ふ、京師の学習院は定日ありて百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる。講日には公卿方出座にて、講師菅家.清家及び地下の儒者相混ずるなり。然らば此の基に因りて更に斟酌を加へば幾等も妙策あるべし。又懐徳堂には霊元天皇宸筆の勅額あり、此の基に因り更に一堂を興すも亦妙なりと小林云へり。小林は鷹司家の諸太夫にて、此の度遠島の罪科に処せらる。京師諸人中罪責極めて重し。其の人多才多芸、唯だ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。西奥揚屋にて余と同居す。後東口に移る。京師にて吉田の鈴鹿石州.同筑州別して知己の由。亦山口三輶も小林の為めに大いに周旋したれば、鈴鹿か山口の手を以て海外までも吾が同志の士通信をなすべし。京師の事に就いては後来必ず力を得るあらん。
一、 讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諌め、宗藩水家と親睦の事に付きて苦心せし人なり、東奥揚屋にあり。其の子速水、余と西奥に同居す。此の父子罪科何如未だ知るべからず。同志の諸友切に記念せよ。余初めて長谷川翁を一見せし時、獄吏左右に林立す、法、隻語を交ふることを得ず。翁独語するものの如くして曰く、「寧ろ玉となりて碎くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と。吾れ甚だ其の意に感ず。同志其れ之れを察せよ。
一、 右数条、余徒らに書するに非ず。天下の事を成すは天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。而して右数人、余此の回新たに得る所の人なるを以て、是れを同志に告示するなり。亦勝野保三郎早や巳に出牢す、就きて其の詳を問知すべし。勝野の父豊作今潜伏すと雖も有志の士と聞けり。他日事平ぐを待ちて物色すべし。今日の事、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同士を問訊する如くすべし。一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す。
一、 越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に座する五、六日のみ。勝保同居せり。後、勝保西奥に来り、予と同居す。予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中、資治通鑑を読み、注を作り、漢紀を終る。又獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保予が為めに是れを語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思ふ。嗟夫。
一、 清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。故に余是れを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。同志其れ吾れに変わりて此の言を践まば幸甚なり。
一、 同志諸友の内、小田村.中谷.久保.久坂.子遠兄弟等の事、鮎沢.堀江.長谷川.小林.勝野等へ告知し置きぬ。村塾の事、須佐.阿月等の事も告げ置けり。飯田.尾寺.高杉及び利輔の事も諸人に告げ置きしなり。是れ皆吾が苟も是れをなすに非ず。
かきつけ終りて後
心なることの種々かき置きぬ思いのこせることなかりけり
呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士
用 語 解 説
留魂録=松陰が刑死する前日(一○月二六日)の黄昏までに記した、遺言の書ともいうべきもの。松陰刑死後一七年目の明治九年、松陰の同囚沼崎吉五郎が神奈川県権令、野村靖(和作)に届け出た。
武蔵の野辺=松陰が下獄した幕獄は武蔵国江戸伝馬町にあった。
大和魂=もと漢才(中国の学問.技術を身につけた才能)に対して、日本固有の実務的、あるいは実生活上の才知.能力をいう。ここでは日本民族固有の気慨.精神のこと。朝日ににおう桜花に例えられ、至純にして果敢、とりわけ国事に当たっては身命を惜しまない尽忠報国の精神をいう。
心跡百変=心が目まぐるしく様々に変わる。 就中=とりわけ。特に。
貫高=前漢の人。趙王張敖の宰相。かつて高祖劉邦が趙王を辱めたので憤り、高祖を殺そうとしたが、趙王とともに捕えられた。趙王の釈放を画策し王は許されたが自らは獄中で自殺した。
屈平=屈原、前三四三―前二七七 戦国時代、楚の王族。平は名、字は原、号は霊均。懐王の時、三閭大夫となったが追放された。後襄王の時再び追われ汨羅の渕に身を投げ自殺。
子遠=入江杉蔵の字。
燕趙多士一貫高、荊楚深憂只屈平=燕や趙には憂国の士が多いけれど、抜きん出ているのは貫高一人。楚の国情を深く憂えているのは屈平のみ。
五月十一日関東の行=長井雅楽が東送の幕命を携えて帰萩したのが一四日である。一四日の誤りか?
一の誠字に工夫を付けたり=誠字一つに人生観をめぐらした。
至誠にして動かざるものは未だ之有らざるなり=誠の徳によって動かすことができないものは、この世に今までなかったことである。(『孟子』離婁上)
手巾=手拭き。手ぬぐい。 評定所=江戸時代、訴訟裁決および立法審議の最高機関。
天朝=朝廷。 相孚せざるところ=互いにくいちがう所。
区区の悃誠=取るに足らない真心。謙譲表現。
蚊虻山を負ふの喩=蚊(か)が山を背負う、の意で、力が小さくて任務が重すぎる例え。蚊負ともいう。(『荘子』秋水) 菲薄=少ないこと。
三奉行=寺社奉行松平伯耆守宗秀、勘定奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清。
尋鞠=尋問。取調べ。
梅田源次郎=一八一五〜五九 名は定朝、号は雲濱、源次郎は通称。若狭(福井県)小浜藩士。幕末の尊攘志士。安政三年一二月来萩、翌年一月迄滞在。安政五年、投獄され翌年獄死。
御所内=京都御所の邸内。
落文=落書。権力者や政治に対する批判や風刺などを匿名で書き記した文書。
奸骨=悪賢い性質。 隠昧の事=隠しごと。
六年間幽囚中=安政元年三月、下田踏海の件により江戸伝馬町の幕獄に繋がれ、一○月長門国萩の野山獄に投じられた。翌年一二月、出獄して杉家幽室に入る。安政五年一二月、老中間部詮勝要撃策が発覚して野山再獄。翌六年五月、東送の命により萩を出発、七月、伝馬町の幕獄に下る。
大原公の西下を請ひ=尊攘派の公卿大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心に有志四、五藩で挙兵しようという陰謀。大原三位西下策。
鯖江侯を要する等の事=志士弾圧の元凶とされる越前鯖江藩主、老中間部詮勝の暗殺計画。
吾が性激烈駑罵に短し=私の気性は激しく、人から怒り罵られると我慢できない。錠諚
幕府違勅の已むを得ざるを陳じ=安政五年、幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのは止むを得ないことであると述べ。
当今的当の処置=現在最も相応しい対応策。
対策=「対策一道」。安政五年四月に執筆した、勅諚に云う諸藩主の意見を聴くということに対する、松陰の意見書。
不届なり=道理や法に背いている。
万万辞せざる所なり=絶対に避けられない。
三尺=法令。昔、三尺の竹簡に法律を刻んだことから。
布衣=庶民。
日下部以三次=一八一四〜五八 正しくは伊三次。名は翼、号は九皐。薩摩藩士。幕政改革を指示した勅諚を水戸藩邸に届けたことが発覚して投獄され、安政五年獄中で病死。
欠失を歴詆して=過ちを次々に挙げてそしり。
子遠の死を以て吾れに責むるも=入江杉蔵が私に尊攘の大義に殉ずるよう求めたのも。
段秀実=唐の人。字は成公。徳宋の時、司農卿となる。名将郭子儀の子、晞が父の威光を借りて乱暴したので、秀実が訓戒を与え改心させた。奸臣朱が謀反を企てた時、秀実がこれを激しく非難したため殺された。
郭曦=未詳。 誠悃=まごころ。
朱=七四二〜七八四 唐の武臣。徳宋の時、大尉となる。姚令言が軍を率いて長安を通過する時、軍変起り徳宋は奉天に逃走、令言が朱を皇帝となし国号を大秦とする。のち武将に殺された。
時措の宜しきあり=その時々にふさわしい処置がとられた。
内に省みて疚しからざるにあり=反省して良心に恥じるところがない。
機を見る=よい機会を捉える。
蓋棺の後を待ちて議すべきのみ=(人間は死後棺を蓋で覆ってはじめて、その人の業績、価値が定まる、と言われているとおり)私も死後、評価すべきである。
口書甚だ草々なり=取調べの調書は甚だ粗略である。
さしたる鞠問もなくして=これといった取り調べもなく。
書判=自分の名の字形を崩して模様化したもの。署名の下に押印の代わりに書く。花押。
墨使応接、航海雄略等の論=アメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考え。
迂腐の論=愚かで役に立たないかんがえ。
甲寅の歳、航海一條の口書に比する時は雲泥の違ひと云うふべし=安政元年、下田踏海の件での取調べ書と比べると大差があるといってよい。(前回は奉行をはじめ役人一同は松陰の心情をよく理解し深切に取り調べた。)
大原公の事=三位大原重徳西下策。
鯖江要駕のこと=老中間部詮勝要撃策。
諜知=こっそり様子を探って知ること。
幕にて一円知らざるに似たり=幕府では全く知らなかったようである。
株連蔓延せば、善類を傷ふこと少なからず=罪人の関係者を芋蔓式に引っ張ると、善良な人々を相当に傷つけることになる。
毛を吹いて瘡を求むる=強いて他人の欠点を探し求め、かえってこちらの欠点をさらけ出すたとえ。(『韓非子』大体)
要諌=待ち受けて諌めること。
連判諸氏の姓名等=老中間部詮勝要撃を誓約し、一七人が連署、血判を押した。
具白=漏れなく申し立てること。 後起人=後に続いて企てに加わった人。
区々の婆心=取るに足りない老婆のような親切。謙譲表現。
幕裁=幕府の裁決。 大慶=大きな喜び。
鯖侯と刺し違へて死し=越前鯖江藩主間部詮勝と互いに相手の胸を突き刺して死に。
警衛の者要蔽する時は=警護の武士が間部侯をさえぎりかばうときは。
誣服せしめんと欲す=無実であるのに罪を犯したと白状させようとする。
肯へて受けんや=どうして心からすすんで受け入れるであろうか。
書判の席=口書(取調べの調書)の末尾に、署名し、その下に自筆で図案化したしるし(花押)を書くとき。
権詐に伏せざるなり=ごまかしに屈服しなかったのである。 吟味=取調べ。
成仁の一死、区々の一言の得失に非ず=わが身を犠牲にして仁徳を成し遂げるための死(『論語』衛霊公)や取るに足らない一言がもたらす利得、損失といったものではない。
義卿=松陰の字。 奸権=人を騙して陥れること。
天地神明照鑑上にあり=天地の神々がご覧になっている。
素より生を謀らず、又死を必せず=もともと必ず生きのびるのだとも考えないし、必ず死なねばならぬとも思わない。
誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり=至誠が天に通じるか、否か、運命に任せている。
一死を期す=死を覚悟する。
継盛唯当に市戮に甘んずべし=明の楊継盛は奸臣巌嵩の専横を弾劾して棄死(市場で処刑)されたが、忠節を貫いたことで満足したであろう。
倉公寧んぞ復た生還を望まんや=漢の名医、淳于意は不義の生還をどうして望むであろうか。
必生を期す、亦頗る慶幸の心あり=必ず生きることが出来ると確信し、大層目出度いことだと思った。
去臘大晦、朝議巳に幕府に貸す=安政五年一二月三○日、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべし、との勅諚が幕府に下った。
吾が公=長州藩主、毛利敬親。萩府は長門国、萩。
神国=日本。 勃々たり=気力が盛んに起るさま。
汨没=沈み隠れること。
死地に措かんとする=死に追いやろうとする。 得力=身につけた力。実力。
安心=心が落ちつき、不安のないこと。
四時の順環=四季が順にめぐること。 禾稼=穀物。稲。
歳功=一年間の収穫。 醴=甘酒。
西成=秋に作物が成熟すること。五行説で西は秋に当たる。(『書経』堯典)
秀でず=稲穂が出ない。 秀実=稲穂が伸びて実ること。
人寿は定りなし=人の寿命は一定していない。
蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり=生命の短いひぐらし蝉を、長生する霊椿を基準にして考えるようなものである。(『荘子』逍遥遊) 命=寿命
義卿三十、四時巳に備はる=義卿(松陰)は年齢三○歳であるが、人生の四季はすっかり備わっている。
秕=殻ばかりで実のないもみ。つまらない人間の例え。
粟=殻をかぶったままの、よく実ったもみ。すぐれた人物の例え。
其の微衷を憐み継紹の人あらば=私の真心に賛同し、尊攘の志を受け継ぐ人があるならば。
後来の種子=後に続く尊攘の志 有年=穀物がよく実る年。豊年。
東口揚屋=伝馬獄の東側の入口にある座敷牢。御目見(おめみえ)以下の直参、陪臣、僧侶、医師などが入牢する。
郷士=江戸時代、郷村に在住した武士。
堀江克之助 一八一○〜七一 号は無名。水戸(茨城県)藩郷士。安政四年、アメリカ総領事ハリスが将軍と会見するため登城するのを要撃しようとして捕えられ、江戸獄に下った。明治二年没。
矢部駿州=一七八九〜一八四二 矢部駿河守定謙。堺町奉行、大坂町奉行、勘定奉行を歴任。天保一二年、江戸町奉行の時、民政改革に努めたが故あって免職。翌年、配所桑名(三重県桑名市)で絶食死。
敵讐=かたき。 告戒=教え諭すこと。
鮎沢伊太夫= 一八二四〜六八 名は国維、字は廉夫。水戸藩(茨城県)士。尊王家。水戸密勅問題で投獄され、安政六年八月遠島の刑を受けた。明治元年戊辰の役で戦死。
水藩=水戸藩。 御沙汰=様子。消息。 少子=わたし。
海外に赴けば=遠島の刑を受け、豊後佐伯に行くので。
天命に付せんのみ=運命に任せるだけである。
吾が志を得たり=同じ志で満足である。
山口三輶=江戸本所亀沢町の医者。志士の面倒をよく見た。 外間=外部。獄外。
周旋=世話をすること。
小林民部 一八○八〜五九 名は良典。鷹司家の諸大夫。民部権大輔。尊攘運動に奔走。安政五年、水戸密勅事件で捕えられ、翌年江戸伝馬牢で獄死。
不凡=普通よりも優れていること。非凡。 通路=連絡
神道=日本固有の民族宗教。『古事記』『日本書紀』などに見える神代の故事に基づいて、神(自然神、祖先神、氏神等)を祭り、五穀豊穣、武運長久を祈る。かんながらの道。
天朝より教書を開板して...如かず=朝廷より教育に関する文書を発行して全国に公布するに越したことはない。
奇材異能を京師に貢し=優れた才能の持ち主を京師の大学校に推薦し。
正論確議を輯集して書となし=正論、定説を編集して書物を作り。
天朝御教習の余=朝廷で学習された余分。
尊攘堂=松陰の遺志を継いだ品川弥二郎が、明治二○年、尊攘の志士を祭り、肖像、遺墨、遺品を保存するために建てた堂。もと下京区錦小路にあったが、今は京都大学校内に移築。
是れを子遠に任ずる=「尊攘堂建設の任を杉蔵に託す」(安政六年一○月二○日付)
端緒あらしめば=きっかけを作っておけば。 荒せず=すたれない。
勅諚綸旨等の事一跌す=安政五年、大老井伊直弼が勅許を待たず、日米修好通商条約を調印したこと。「一跌」はあやまつ。
善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず=善い方策を作り、先人の事業を受け継がなければならない。
亦奇ならずや=なんと素晴しいことではないか。
学習院=幕末、公家の子弟の教育機関として設けられた。弘化四年開院。儒学を主とし国学を加えた。明治三年閉鎖。 講釈=講義。
公卿方=天皇に近侍する朝臣。
菅家.清家=菅原家、清原家。何れも平安時代から学問を家業として朝廷に仕えた。
地下=位階、官職など公的な地位を持たない者。
斟酌=事情をよくくみとり、程よく処理する。
懐徳堂=享保九年、大坂町人の援助により中井甕庵を中心に大坂に設立した家塾。朱子学、国史、国文を教授し庶民教育に尽くした。明治二年閉校。
霊元上皇=一一二代天皇。在位一六六三〜八七 宸筆は天皇の直筆。
鷹司家=五摂家の一つ。諸大夫は摂関家の家司(けいし。家務を司る)に任じられた四位、五位の官人。
遠島=博奕、誤殺等に科せられた刑罰。流罪。年限はなく、罪人の家屋敷、田畑、家財は没収される。
文学=学問。儒学。
処事の才=物事を適切に処理する才能。
鈴鹿石州、同築州=ともに京都、吉田神社の神官。
別して知己=特別な親友。 海外までも=遠島の果てまでも。
京師の事=京都の大学校、尊攘堂の設立。 後来=将来。
讃=讃岐(さぬき)の国。香川県。
長谷川宗右衛門 一八○三〜七○ 名は秀驥、字は邦傑、号は俊阜。高松藩士。藩主と水戸藩との周旋につとめた。尊攘に奔走し、次男は速水とともに伝馬獄に下る。明治三年没。
宗藩水家=徳川頼房(家康の子で水戸徳川家の祖)頼重が讃岐高松の城主に封じられたので、水戸は高松の宗藩(本家)に当たる。
速水=一八三四〜六○ 宗右衛門の次男。名は秀雄。父の志を継いで脱藩、志士と交わる。父子ともに自首し伝馬獄に下る。松陰としばらく同居。のち高松の獄舎に護送され、万延元年、獄中で病死。
隻語=ちょっとした言葉。
寧ろ玉となりて砕くるとも...全かるなかれ=正義や名誉のために死ぬのは、むしろ望ましいことだが、何もなすことなくいたずらに生きながらえ、平凡な人生を送るべきではない。(『北斉書』元景安伝)
勝野保三郎=江戸の人。名は正満。安政五年、父豊作が水戸密勅伝達に奔走し、兄森之助とともに江戸獄に入る。松陰としばらく同居、のち出獄。
其の詳を問知すべし=保三郎の詳しい様子を問いたずねるがよい。
勝野の父豊作=一八○九〜五九 名は正道、号は台山。江戸の人。水戸密勅伝達に奔走し、幕府の探索をくぐって逃走潜伏した。安政六年病死。
傷残の同士を問訊する如くすべし=傷ついた勤皇の志士の安否を尋ねるようにするがよい。
一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや=一度敗北したからといって、すぐさま挫けてしまうのは、どうして勇士のなすべきことといえようか。
嘱す=頼む。 越前=福井県。
橋本左内=一八三四〜五九 名は綱紀、字は伯綱、弘道。福井藩士。緒方洪庵に医学、洋学を学ぶ。藩主松平慶永に認められ、藩医、藩校明道館学監となり、藩政、幕政の改革に尽くす。安政の大獄により斬首。二六歳。
勝保=勝野保三郎
資治通鑑=歴史書。宋の司馬光の著。周の威烈王から五代後周の世宗まで一三六二年間の歴史を編年体で記述。
漢紀=歴史書。後漢の荀悦の著。班固の『漢書』を要約して編年体でまとめたもの。
教学工作等の事=教育、学問振興の為の諸計画。
吾が意を得たり=私と同じ考えで満足である。
左内を起して一議を発せんことを思ふ=左内に働きかけて義挙を発起しようと思ったのに。
清狂=一八一七〜五八 月性のこと。字は知円、清狂は号。周防遠崎(山口県玖珂郡大畠町)、妙円寺住職。『仏法護国論』を著わし、海防を論じ攘夷を唱えた。雲濱、松陰と交遊。
口羽=口羽徳祐 一八三四〜五九 名は親之、通g、字は希魏、亀山、杷山と号す。
長州藩寺社奉行。松陰の親友。安政六年病没。著書『杷山遺稿』
水人=水戸藩士。鮎沢伊太夫
此の言を践まば幸甚なり=この言葉通り実行してくれたら大変嬉しい。
小田村.中谷.久保.久坂.子遠兄弟=小田村伊之助.中谷正亮.久保清太郎.久坂玄瑞入江杉蔵.野村和作
鮎沢.堀江.長谷川.小林.勝野等=鮎沢伊太夫.堀江克之助.長谷川速水.小林良典.勝野保三郎
須佐.阿月等の事=長門須佐(山口県阿武郡須佐町)は家老益田弾正の采邑で郷校育英館があり、周防阿月(柳井市阿月)は家老浦靱負の采邑で郷校克己堂が設けられ、いずれも松陰の同志がいた。
飯田.尾寺.高杉及び利輔の事=飯田正伯.尾寺新之丞.高杉晋作.伊藤利輔(博文)
是れ皆吾が苟も是れをなすに非ず=これは全て私がいい加減な気持ちでしたことではない。
心なること=心の中に思ったこと。
呼び出し=牢獄で罪人に処刑を申し渡すため、呼び出すこと。
君を崇めて夷払へよ=尊皇攘夷の心を詠む。
めづ=慕う。
七たびも生きかへりつつ...吾れ忘れめや=七生報国(七たび生まれかわって国恩に報いること)の決意を詠んだ。忘れめやは決して忘れまい、の意。
黄昏=夕暮れ。
二十一回猛士=松陰の別号。
解 説
『留魂録』は松陰が門下生に残した遺書である。松陰は十月二十七日に処刑されたが、これはその前日の二十五日から二十六日夕刻にかけて書き上げられた。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」と、大和魂を留めて七生報国すると念じた歌を巻頭においた十六節からなるもので、巻末に五首の短歌が添えられている。薄葉の半紙五枚を四つ折りにして、十九面に細書きされている。至誠の限りを尽くして幕吏を説得する決意を持って江戸に来ながら、ついに成就しなかった。こうした結果を招いたのは自分の徳の非薄さの為だとまず自責している。ついで、評定所における対吏の模様を詳しく述べたあとで、「天下のことを成すは天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず」という確信から、同囚の同志達の動静を伝えて後起の人に期待をつないでもいる。また、人生を四季に例えた人生観は、いつも死を前に据えながら思索し、行動してきた人の言葉だけに強く心を打つ。其の筆は、事実については淡々と冷静に、そして後起の者への訴えは切々と進められており、読む者の深い感動を誘う。
さて、『留魂録』は同囚の沼崎吉五郎(福島藩士、殺人の嫌疑で投獄)に託して届けてもらうことにした。沼崎はその後、三宅島に遠島となり明治になって釈放され、同九年に時の神奈川県令野村靖(和作)が長州出身と聞いてこれに『留魂録』、『諸友に語ぐる書』と遺墨数葉を手交した。今日『留魂録』に接することが出来るのは、ひとえに、二十年もの獄生活の間大切に持ち続けてくれた沼崎のお陰である。野村が沼崎をどのように遇したのか、その後の沼崎の消息は明らかでない。
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