松下村塾記     (丙辰幽室(へいしんゆうしつ)文稿(ぶんこう))安政三年九月四日 二十七歳

長門の国()る山陽の西陬(せいすう)(へき)(ざい)りす(しこう)して萩城は連山の(きた)(おお)ひ、渤海(ぼっかい)(しょう)に当たる。其地(そのち)海に(そむ)き山に(むか)い、卑湿(ひしつ)隠暗(いんあん)なり。吉見(よしみ)()の、故虚(こきょ)にして(いにしえ)(はなはだ)しく(けん)ならず。二百年(このかた)乃ち(すなわ)本藩の(おさむ)る所と為る。是において山産海物(さんさんかいぶつ)四方幅湊(ふくそう)し、厳然(げんぜん)として一都会を為す。城の東郊(とうこう)、すなわち吾が松下(まつもと)(むら)たる、南に大川(だいせん)()ぶ。川の源、(けい)(かん)数十里、人()(きわ)むるなし。(けだ)し平氏遺民(いみん)(かつ)隠匿(いんとく)せし所なり。その東北ニ山(にざん)、大なるは唐人山(とうじんやま)と為す。朝鮮俘虜(ふりょ)鈎陶(きんとう)する所なり。小なるは長添山(ながそえやま)と為す。松倉伊賀の廃址(はいし)なり。伊賀は(かつ)て大内氏の将岩成(いわなり)豊後(ぶんご)(しばしば)陣原(じんばら)に戦い、(しきり)に敗れるところとなり、遂に大将(たいしょう)渕に投じて死す。原と渕とは今皆存すと云う。山川の間人戸(じんこ)一千、士農在り工商在り。昔時は分惋(ぶんわん)不平の気、今は則ち欝然靄然(うつぜんあいぜん)(はっ)して人物を為し、煥乎(かんこ)として一勝区(いちしょうく)を為す。然るに(われ)常に(あや)しむ。昔時は分惋(ぶんわん)の気、流れて川と為り、(そびえ)て山と為り、発すれば則ち人物と為り、以て()うところ一勝区(いちしょうく)を成すを。(もと)よりそれ常のみ、(いやし)くも奇傑(きけつ)非常の人(おこ)りて奮発(ふんぱつ)震動(しんどう)し、(けん)(てん)(こん)(うご)かし、以て邦家(ほうか)休美(きゅうび)()すに(あら)ざるよりは、()た何を以てか山川(さんせん)の気を一変して、其の忿惋(ふんわん)(たいら)かにするに足らんや。況んや萩城に隠暗(いんあん)にして(あら)はれざること、亦已(またすで)に久しきをや。今は則ち厳然(げんぜん)として一都会たれども、是れ()(しん)(あら)はるる者に(あら)ず、()だ其の機の先兆(せんちょう)のみ。今松下は城の東方にあり。東方を(しん)と為す。震は万物(ばんぶつ)の出ずる所、又奮発震動の(しるし)あり。(ゆえ)に吾()へらく、萩城の(まさ)に大いに(あら)はれんとするや、其れ必ず松下(しょうか)(むら)より始まらんかと。

去年余(ごく)(ゆる)され、松下(しょうか)家居(かきょ)し、外人に接せず。独り外叔(がいしゅく)久保先生及び諸従兄弟(いとこ)、時々過訪(かほう)し、因つて共に道芸(どうげい)講究(こうきゅう)す。家厳(かげん).家叔(かしゅく)家兄(かけい)と、又従って之れを奨励(しょうれい)せらる。吾が(ぞく)盛大(せいだい)なる、(けだ)し将に往々(おうおう)(いち)(ゆう)奮発(ふんぱつ)(しん)(どう)せんとするなり。

初め家叔(かしゅく)先生の徒を集めて教授せらるや、其の家塾に(へん)して、松下(しょうか)村塾(そんじゅく)()ふ。

家叔(かしゅく)(すで)(かん)となり、其の(ごう)久しく(はい)せり。外叔(がいしゅく)(すで)にして(むら)の子弟を会して之れを教へ、其の号を沿用(えんよう)す。(このこ)ろ余に命じて之れを記せしむ。

余曰く、「学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。()くるに村名(そんめい)を以てす。誠に一邑(いちゆう)の人をして、入りては(すなわ)孝悌(こうてい)()でては則ち忠信(ちゅうしん)ならしめば、則ち村名(そんめい)これに()くるも()ぢず。()し或いは(しか)(あた)はずんば、亦一邑(いちゆう)(じょく)たらざらんや。抑々(そもそも)人の最も重しとする所のものは、君臣(くんしん)の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷(かい)(べん)なり。今天下は如何(いか)なる時ぞや。君臣の義、(こう)ぜざること六百余年、近時(きんじ)に至りて、華夷(かい)(べん)を合せて又之を失ふ。(しか)(しこう)して天下の人、方且(まさ)安然(あんぜん)として計を得たりとなす。神州の地に生れ、皇室の恩を(こうむ)り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷(かい)(べん)(わす)るれば、(すなわ)ち学の学たる所以、人の人たる所以、其れ(いず)くに在りや。是れニ先生の痛心(つうしん)せらるる所以にして、而して余の之れが記を為らざるを得ざるも、亦ここにあり。(ああ)外叔(がいしゅく)先生、誠に()一邑(いちゆう)の子弟を教誨(きょうかい)して、上は君臣の義、華夷(かい)(べん)を明かにし、下は又孝悌(こうてい)忠信(ちゅうしん)を失はず。然る後奇傑(きけつ)非常の人、()つて之れに従ひ、以て山川忿惋(ふんわん)の気を一変し邦家(ほうか)休美(きゅうび)の盛を(じゅん)()せば、則ち萩城の真に(あら)はるること、(まさ)にここに於いてか()らんとす、()に特に一勝区(いちしょうく)一都会のみならんや。果たして然らば、則ち長門は(へき)して西陬(せいすう)に在りと雖も、其の天下を奮発(ふんぱつ)して、()()震動(しんどう)するも、亦(いま)(はか)るべからざるのみ。余は罪囚(ざいしゅう)の余、言ふに足る者なし。然れども幸に族人(ぞくじん)(まつ)()れり。其の、子弟を糾輯(きゅうしゅう)して、以てニ先生の(あと)()ぐがごとくんば、即ち()へて(つと)めずんばあらざるなり。」と。外叔(がいしゅく)先生曰く、「子の(げん)は則ち大なり、吾れ()へてせざるなり。請ふ邑人(ゆうじん)に切なるものを聞かん」と。余曰く、「古人月旦(げったん)の評あり。今且く子弟の為めに三等を設立し、分つて六科と為し、各々其の居る所を(しる)し、月朔(げっさく)昇降(しょうこう)して以て其の勤惰(きんだ)(けん)せん。曰く進徳(しんとく)、曰く専心(せんしん)、是れを上等と為す。曰く精励(せいれい)、曰く修行(しゅぎょう)、是れを中等と為す。曰く怠惰(たいだ)、曰く放縦(ほうしょう)、是れを下等と為す。三等六科、志の(おもむ)く所、心の(やす)んずる所、為して()ならざるなし。誠に邑人(ゆうじん)をして皆進みて上等の(せん)たらしめば、則ち吾れの前言(ぜんげん)(いま)だ必ずしも其の大を()へざるなり」と。先生曰く、「()し」と。因って(あわ)せ記す。安政三年丙辰(へいしん)九月、

吉田(のり)(かた)(せん)す。

 

 

『松下村塾記』概略要旨

長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく顕われていない。しかし、萩城もこのままであるはずがなく、将来大いに顕現するとすれば、それは東の郊外たる松本村から始まるであろう。私は去年獄を出て、この村の自宅に謹慎していたが、父や兄、また叔父などのすすめにより、一族これに参集して学問の講究に努め、松本村を奮発震動させる中核的な役割を果たそうとしているのである。

叔父玉木文之進の起こした家塾は『松下村塾』の扁額を掲げた。外叔久保五郎左衛門もそれを継いで、村名に因むこの称を用い、村内の子弟教育にあたっている。その理念は「華夷の弁」を明らかにすることであり、奇傑の人物は、必ずここから輩出するであろう。ここにおいて彼等が毛利の伝統的価値を発揮することに貢献し、西端の僻地たる長門国が天下を奮発震動させる根拠地となる日を期して待つべきである。私は罪囚の余にある者だが、幸い玉木、久保両先生の後を継ぎ、子弟の教育に当たらせてもらえるなら、敢えてその目的遂行に献身的努力を払いたいと思う。 

  (『吉田松陰』 古川薫著 創元社より)

 

 

 

 

解 説

 

「松下村塾記」は、当時松下村塾の名で以て私塾を経営していた外叔久保五郎左衛門の求めに応じて松陰が書き贈ったものである。それは村の名前を冠した塾の教育の理想とその責務の大きさが述べられており、その抱負はまことにおおきい。文章もまた雄渾で口誦して士気の高まりを覚えるものがある。松陰自ら、「略ぼ志す所を言ふ」(小田村伊之助宛書簡、安政三年十一月二十日)と述べており、自信の作であると言えよう。

ここで松陰は、教育の使命を、君臣の義をわきまえ、「華夷の弁」を明らかにした「奇傑非常」の人を育成するところに置いている。この考え方は後に自ら主宰者となった松下村塾においてはもとより、彼の終生変わらぬ教育観であった。なお本文については、それが自然の形勢からある種の哲学的見解をさぐり出している考え方は東洋的であるという指摘もある。(玖村敏雄)

(『吉田松陰撰集』(財)松風会刊行より)

 

用 語 解 説

長門=長州(山口県)  (へき)=片寄っていて遠い。(へん)ぴ。  西陬(せいすう)=西方の片隅(かたすみ)

渤海(ぼっかい)(しょう)=渤海は中国の(りょう)東半島(とうはんとう)山東(さんとう)半島にかこまれる黄海の湾入(わんにゅう)部分の名称。(しょう)とは突き当たり。萩城(はぎじょう)が北方に対する要衝(ようしょう)の地の意。

卑湿(ひしつ)隠暗(いんあん)=萩は低湿(ていしつ)山陰(やまかげ)にあってくもりがちである。

吉見(よしみ)()故墟(こきょ)石見(いわみ)の国(島根県)吉見氏は津和野(つわの)の豪族。吉見(よしみ)正頼(まさより)の時に萩に居館(きょかん)を構え隠棲(いんせい)したその跡地(あとち)。 二百年来=毛利輝元(てるもと)が慶長九年(一六〇四)萩城を築いてから、約二百年が()っている。 本藩(ほんはん)治所(ちしょ)=毛利藩の政府の所在地。

輻湊(ふくそう)=物が一ヶ所に集中し、混み合うさま。松下(まつもと)(むら)=萩城下の東郊(とうこう)に位置する村で松本村の雅称(がしょう)。松陰生誕の地。 川の(みなもと)溪澗(けいかん)数十里=阿武川(あぶがわ)の源は渓谷(けいこく)を数十里(さかのぼ)った所にある。

平氏の遺民(いみん)(かつ)隠匿(いんとく)せし所=その昔、源平の合戦で敗れた平氏の落人(おちうど)(かく)れ住んだ所。唐人山(とうじんやま)=現在の萩市椿東(ちんとう)にある標高四七四メートルの山。朝鮮俘虜(ふりょ)均陶(きんとう)る所=朝鮮の(えき)文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき))で捕虜(ほりょ)として連行された朝鮮の陶工(とうこう)達が、藩主御用(ごよう)の陶器を(きん)(せい)した所。萩焼き発祥(はっしょう)の地。

長添山(ながそえやま)=萩の北東、現在の椿東にある丘陵(きゅうりょう)松倉(まつくら)伊賀(いが)古城(こじょう)と言い伝えられる山は、それより数百メートル南東の(じょう)腰山(こしやま)で、松陰の誤り。松倉伊賀の廃址(はいし)=肥前(佐賀県)島原藩主であった松倉重政の城跡(しろあと)。 陣原(じんばら)=地名。今の萩市の沖原(おきはら)にあたる。 

大将(ふち)松倉(まつくら)伊賀(いが)(ぼっ)したとする所。場所は不明。忿惋(ふんわん)=いきどおり、(うら)むこと。

 (うつ)然靄然(ぜんあいぜん)として、(はっ)して人物となり=物事の勢いが(さか)んで(鬱然)なごやかさに満ちた(靄然(あいぜん))雰囲気があり、そうした中で優秀な人材を生み出している。

煥乎(かんこ)=光輝いているさま。 勝区(しょうく)=立派で(すぐ)れた場所。 奇傑(きけつ)非常の人=人並み以上に優れた人物。 奮発(ふんぱつ)震動(しんどう)=ふるい動かす。 (けん)を転じ(こん)(うご)かし=乾は天、坤は地を示す。天地を動かすこと。 邦家(ほうか)休美(きゅうび)を成す=我が長州藩を美しく立派なものにする。 厳然(げんぜん)=おごそかで侵しがたいさま。 先兆(せんちょう)=前ぶれ、予告。

(しん)(えき)(うらな)いの八卦(はっけ)の一つで、雷、東、長男等を表す。易経(えききょう)説卦伝(せつけでん)に「万物(ばんぶつ)は震に()づ、震は東方(とうほう)なり」とある。 (しるし)=揺れ動くしるし。あらわれ。 去年=ここでは安政二年十二月十五日、出獄(野山獄)して蟄居(ちっきょ)した。 外人=家族以外のよその人。

外叔(がいしゅく)久保先生=母方の叔父(おじ)、久保五郎左衛門。養母久満(くま)(吉田大助の妻)が家格の関係から五郎左衛門の養女として吉田家に()したので外叔という。 道芸(どうげい)=道徳と学芸。

家厳(かげん)=父、杉百合之助。 家叔(かしゅく)=玉木文之進  家兄(かけい)=兄、杉梅太郎

(へん)して=戸口(とぐち)に標札をかかげる。 沿用(えんよう)=松下村塾名をそのまま用いること。

誠に一邑(いちゆう)の人をして...村名これに係くるも()ぢず=実際、この松本の一村の人々に、家にあっては父母に孝を尽くし年長者によく仕え、また外においては主君に忠義(ちゅうぎ)を尽くし他人に信義(しんぎ)を尽くさせるならば、塾名に村名を(かか)げてもその名に()じることはない。

君臣の義=君主と臣下(しんか)の間で守るべき正しい道。

華夷(かい)の弁=華夷とは中国人が自国(じこく)(中華(ちゅうか))と外国(夷狄(いてき))のことを区別して呼んだ名称。(べん)とは差異(さい)を明確にすること。ここでは日本と外国の違いを明確にすること。

六百余年(よねん)=鎌倉幕府が開かれ(一一九ニ)、武士の支配する世の中になって、およそ六百年を()る。

方且(まさ)安然(あんぜん)として計を()たりと為す=今やきちんとした計画が出来ていると満足している。   神州(しんしゅう)=神国日本。  ()先生=玉木文之進と久保五郎差衛門。

教誨(きょうかい)=教え(さと)すこと。  馴致(じゅんち)=次第に別の状態に移り変わらせること。

四夷(しい)=四方の異民族。東夷(とうい)西戎(せいじゅう)南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)。 族人(ぞくじん)=一族の者。 

糾輯(きゅうしゅう)=集めること。

()えて(つと)めずんばあらざるなり=すすんで努力しなければならない。

月旦(げったん)の評=月の第一日目に人物を評価する。中国の後漢(ごかん)時代に、許劭(きょしょう)が毎月の初めに郷里(きょうり)の人物を評しあった故事(こじ)による。

月朔(げっさく)昇降(しょうこう)して=毎月の第一日目に、人物(じんぶつ)(ひょう)の等級の上げ下げをする。

その勤惰(きんだ)(けん)せん=子弟が勤勉か怠惰(たいだ)かを調べよう。

三等(さんとう)六科(ろっか)=『上等』→進徳(しんとく)専心(せんしん)。 『中等』→精励(せいれい)修行(しゅぎょう)。 『下等』→怠惰(たいだ)放縦(ほうしょう)

 

 

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