伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
伊藤博文は天保12年(1841)周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県大和町)に父・十蔵、母・琴子の長男生まれた。幼名は利助(後に利輔)次に春輔(又は俊介、俊輔)と称せられ、後に博文と改名した。
嘉永2年(1849)9歳の時に萩に移り、安政4年17歳の時に松下村塾に入門。吉田松陰は、久坂玄瑞宛ての書状で「利助(博文)亦進む、中々周旋家になりそうな」と、また別の書状では「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」と後の伊藤博文を評した。その後、松下村塾で出会った木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らと交わり、文久2年(1862)には久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち、するなど尊皇攘夷の志士として活躍した。
まもなく、文久3年(1863年)自ら志願して井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉ら所謂「長州五傑(長州ファイブ)」と共にロンドンに留学。西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加した。
翌元治元年(1864年)、長州藩による下関での外国船砲撃事件を知ると、井上聞多とともに急ぎ帰国し戦闘回避に奔走するがかなわず、戦後の和平交渉の際は通訳として使節に参加。
長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉晋作に従い「力士隊」を率いて挙兵。後に「奇兵隊」も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、藩論を倒幕にすることに成功。統一正義派(革新派)に藩政を握らせることになる。
明治維新後は元年に兵庫県知事となり、その後は新政府の中枢で活躍。明治18年(1885)に初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣した。
その間、大日本帝国憲法制定の起草・主導的役割を果たし、初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長など数々の要職を歴任。立憲政友会を結成し初代総裁を務めるなどもしている。
明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて安重根に暗殺された。(享年69歳)
(上)文久3年、洋行前の若き日の伊藤博文(当時・春輔)。
松下村塾近くにある伊藤博文旧宅。
国の史跡にも指定されている。
功山寺決起の後、俗論派(佐幕)と正義派(倒幕)が衝突した大田・絵堂の戦い。
大田・絵堂の戦い激戦地。
伊藤には、栄達した後の初代総理大臣のイメージが強いが、
志士時代には高杉晋作の下で、命をかけた過激な行動を共にしている。
萩市・伊藤博文旧宅の横にある伊東博文別邸。
栄達した伊藤が明治40年に東京に建てた別邸の一部を移築したもの。
明治時代の宮大工伊藤万作の手によるもの
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