久坂 玄瑞(くさか げんずい)
天保11年(1840年)5月誕生日不明 - 元治元年7月19日(1864年8月20日)。
幼名は「秀三郎」、諱(本名)は「通武(みちたけ)」。字は「玄瑞」、「実甫」通称は「誠」「義助」。
久坂玄瑞は、長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医 久坂良迪と富子の三男として誕生。両親が歳をとってから生まれた子供だったこともあり、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため、藩校医学所好生館に入学した後、藩校・明倫館に入学。嘉永6年〜7年(1853〜1854)にかけて母、兄、父が次々となくなり15歳にして家督を継ぐこととなった(次男は玄瑞誕生時に既に死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。
安政3年(1856年)17歳の時、藩に願い出て九州に3ヶ月間遊学。松陰の親友であった宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に学ぶことを奨められ、初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。
帰藩後、松陰に手紙を書き、吉田松陰と書簡のやりとりを行い、その1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾し、松陰の薫陶を受けることとなる。松陰は久坂を「防長第一流の人物」であると高く評価し、高杉晋作と争わせて才能を開花させるようつとめた。松陰は、自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧め、安政4年12月、玄瑞は松陰の妹・文と結婚。時に玄瑞18歳、文15歳。
安政5年(1858年)江戸と京都に遊学。安政の大獄による師・松陰刑死の後から、玄瑞は松陰の遺志を継ぐかのように長州藩尊攘運動の先頭に立ち活発に活動するようになる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)同志と共に上京し、長井の弾劾を叫び、藩論の転換に尽力した。
1862年10月、高杉晋作らと攘夷血盟を行い、御楯組を結成。12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策。同年5月には、下関にて光明寺党を結成。首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃を実行する。
文久3年(1863年)8月、「玄瑞」から「義助」に改名。再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画などを画策した。八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、長州藩の失地回復を図った。
元治元年(1864年)6月池田屋事件の報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰。来島又兵衛や真木和泉らが諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変または蛤御門の変)負傷して、同じ松下村塾塾生である寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
松陰から受け継いだ久坂玄瑞の思想と行動力は、坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、多数の志士たちに大きな影響を与えた。西郷隆盛は、明治維新の後、久坂玄瑞について以下のようなことを述べている。「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたものではない。それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言われるのは、恥ずかしゅうてならぬ」(頭山満「大西郷遺訓」)。
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(上)久坂玄瑞の墓。 |
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