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松下村塾門下生について


松下村塾全景
(上)門下生たちが学んだ松下村塾全景。

松下村塾内に飾られてある著名な門下生達の肖像写真
(上)松下村塾内に飾られてある著名な門下生達の肖像写真。

松下村塾の講義室
(上)松下村塾の講義室。この狭い空間で松陰の薫陶を受けた門下生達が
歴史の波へと身を投じ、日本の歴史をつくる活躍をした。


松下村塾の講義の様子・再現(松陰記念館)
(上)松下村塾の講義の様子・再現。(松陰記念館)

松下村塾門下生たちの貴重な写真
(上)松下村塾門下生たちの貴重な写真。
上段左端:広沢真臣、左から2人目:前原一誠、下段右から2人目:山田顕義
(松陰記念館にパネル展示されているもの)

東京・九段下にある品川弥二郎像
東京・九段下にある松陰門下の一人・品川弥二郎像。
松陰の遺志を継ぎ、京都に尊攘堂を建てるなど、終世師を想い続けた。


松下村塾門下生について

萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立したのが松下村塾のはじまり。

松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に蟄居する事になり、杉家の母屋を増築して、引き継ぐ形で松下村塾を主宰、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。

松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たす。

久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は、伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たした。

塾生名簿は現存しないが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われている。

「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門下生達の活躍により、全国に轟き、現在まで語り継がれる歴史上稀に見る奇跡の私塾となったといっても過言ではない。

しかし、一方で松陰研究者の泰斗・海原徹氏はその著作のなかで松下村塾の門下生達についてこう書いている。

『世に出た成功者、市井に隠れた非成功者、いずれも村塾で学んだ代理不可能、掛け替えのない人間そのものであるという事実が確認されてよく、それゆえに成功者の数の大きさを言い募ることにもともと何の真実もなく、またそのことを前提にしながら理想の学校や理想の教師、はたまた理想の教育を云々することが極めて無意味な作業であることに気付くだろう。位階勲等に象徴される世俗的な成功の有無、もしくはその大小が、人間としての価値、彼がいかに意味のある人生を生きたのかを果たしてどこまで正確に言い表すことができるのかはなはだ疑問であるが、おそらくこの事実をもっとも明快に承知していたのが、松陰その人であったように思われる。』(海原徹著「松下村塾の明治維新」あとがきより)




松下村塾の主な門下生(順不同)
久坂玄瑞
くさかげんずい
松下村塾の双璧。松陰から「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価された英才。長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍した。坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えた。禁門の変で自刃(享年25)。

高杉晋作
たかすぎしんさく
松下村塾の双璧。功山寺挙兵により長州藩の藩論を倒幕に統一。その後の第二次長州征伐(四境戦争)でも海軍総督を務め、江戸幕府のを倒壊を決定づけた。結核により明治維新を見ずに逝去(享年27)。

吉田稔麿
よしだとしまろ
松下村塾の三秀(久坂、高杉、吉田)。松陰主宰初期の松下村塾門下生として、増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われる。松陰から「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」と高く評価された。奇兵隊に参加後、屠勇隊を創設するなど、松陰死後に有力な志士として活動したが、池田屋事件で討ち死(享年24)。

入江九一
いりえくいち
松下村塾の四天王(久坂、高杉、吉田、入江)。久坂、高杉などの門下生の大半が反対する中、松陰が考えた老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従。高杉の奇兵隊創設にも協力した。禁門の変で自刃(享年28)。

伊藤博文
いとうひろぶみ
高杉の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。明治維新後は兵庫県知事の後、初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣。長きにわたり、国政の発展に貢献した。明治42年、満州にて安重根に暗殺された(享年69)。

山縣有朋
やまがたありとも
奇兵隊軍監として活躍。明治維新後は、明治22年に第9代内閣総理大臣に就任。明治31年にも第2次山縣内閣を発足させた。山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた(享年85)。

前原一誠
まえばらいっせい
長州藩における倒幕活動に尽力。戊辰戦争では参謀として活躍した。維新後は越後府判事や参議を勤める。明治9年、不平士族を集め「萩の乱」を起こし、処刑された(享年43)。

品川弥二郎
しながわやじろう
松陰死後、尊王攘夷活動に奔走。山田顕義らとともに御楯隊を組織するなどした。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。維新後は、第一次松方内閣で内務大臣をつとめた。民間にあっては、現在の獨協学園(獨協大学)や京華学園(京華中学・高校)を創立した(享年58)。

山田顕義
やまだあきよし
禁門の変や、功山寺挙兵、戊辰戦争に参戦。明治7年「佐賀の乱」、明治10年「西南の役」では征討軍の将として戦った。明治新政府では、明治18年、初代司法大臣として入閣。以後四代の内閣で司法大臣を務めた。また、日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立した(享年49)。

野村靖
のむらやすし
入江九一の弟。兄とともに老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従した。維新後は神奈川県令、枢密顧問官、駐仏公使などを歴任。第2次伊藤内閣の内務大臣、第2松方内閣の逓信大臣にも就任している。現存する「留魂録」を、松陰の死から17年後、元牢名主であった沼崎吉五郎から受け取った人物(享年68)。

正木退蔵
まさきたいぞう

現在の東京工業大学の初代校長や、ハワイ総領事を務めた。正木は明治4年、ロンドン大学で化学を学ぶため渡英し、帰国後、再度渡英しているが、このとき「宝島」で知られる世界の文豪R.H.スティーブンスンに、師である松陰の思い出を語って聞かせた。正木から聞いた松陰の生き方に心を動かされたスティーブンスンは、世界初の松陰の伝記「YOSHIDA-TORAJIRO(ヨシダ トラジロウ)」を著している。(享年51)

松浦松洞
まつうらしょうどう
松陰主宰初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。現存する江戸におくられる直前の吉田松陰の肖像を描き残した人物として知られる。公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を企てるが果たせず、京都で自害(享年26)。

増野徳民
ましのとくみん
松陰主宰初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。文久2年に久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画に加わろうとして失敗。これ以後は、故郷で医業に専念した。慶応2年の四境戦争の際には芸州口へ軍医として赴いている(享年37)。

(木戸孝允)
きどたかよし
志士時代(桂小五郎)は長州藩尊王攘夷派の中心人物として活動。新政府では参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画、版籍奉還の実現にも尽力した。西郷隆盛、大久保利通とともに、「維新の三傑」と呼ばれる。長州藩の藩校・明倫館で兵学教授であった松陰に学び、「事をなすの才あり」と評される。木戸孝允は、いわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかったが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けていた(享年44)。




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