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山口県萩は、吉田松陰が生まれ、松下村塾を主宰し、数々の志士たちを生み出した維新源流の町です。
当然、松陰や門下生たちに関する史跡が、小さい萩の中に数多く集中して存在しています。
このページでは、明治維新胎動の地・萩の松陰関連史跡をご紹介します。
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【萩城址】
長州藩主・毛利家代々の居城だった萩城址。別名・指月城(しづきじょう)。
1863年に毛利敬親が幕府の許可を得ずに、政治の中心を山口政事堂に移すまでの255年間、
長州藩の政治経済の中心地であった。指月山の麓に壕と石垣だけが残っており、
現在は、指月公園となっている。歴史情緒あふれるオススメスポット。
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【旧厚狭毛利家萩屋敷長屋】
萩城址近くにある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。
厚狭毛利家は、毛利元就の五男・元秋を始祖とする毛利氏一門。もともとは広大な敷地を誇っていたが、
現在は安政3年(1856年)に建てられたこの長屋のみが残っている。現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、
当時の武家屋敷の姿をよく伝える遺構として国指定重要文化財にも指定されている。
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【萩・松陰神社、松門神社】
左画像は、吉田松陰を祀る松陰神社。右画像が、松下村塾門下生たちを祀る松門神社。
明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の愛用していた硯と松陰の書簡をご神体として祀ったのが萩・松陰神社の始まり。
明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して
土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを祭る末社・松門神社となっている。
学問の神として萩で最も崇敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
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【松下村塾(松陰神社内)】
当時の姿を今に残す萩・松陰神社内にある松下村塾。
萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842年)に設立したのが始まり。
松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、この小さな部屋で松陰の指導・薫陶を受けた
松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など
幕末・明治において大きな活躍を果たすこととなる。
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【吉田松陰幽囚ノ旧宅(松陰神社内)】
松陰の生家である杉家の家族たちが住んでいた吉田松陰幽囚ノ旧宅。
伊豆・下田で密航に失敗し自首し、江戸伝馬町の牢に捕らえられたその後、萩に送られ野山獄に入れられた松陰。
安政2年に釈放となり、松陰の父・杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
この旧宅で家族に孟子や武教全書を講じるようになり、やがて松下村塾での門人たちへの教育へと発展していくこととなる。
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【石碑「明治維新胎動之地」、「薩長土連合密議之處」(松陰内)】
(左)松陰神社内にある「明治維新胎動之地」と大書された石碑。揮毫は山口県出身の内閣総理大臣・佐藤栄作によるもの。
(右)土佐藩・坂本龍馬、薩摩藩・田上藤七、長州藩・久坂玄瑞が、文久2年、この付近にあった宿屋にて一堂に会し、
国事を語り合ったであろうことを記念して建立された「薩長土連合密議之處」石碑。揮毫は内閣総理大臣・岸信介。
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【松陰神社宝物殿 『至誠館』(松陰神社内)】
松陰没後150年を記念して開館した松陰神社宝物殿「至誠館」。
現存する松陰直筆の留魂録ほか、縁の品々や書状など多数展示されている。
吉田松陰と松下村塾に関する貴重な資料が分かりやすく展示されている必見の資料館!!
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【吉田松陰歴史館、花月楼(松陰神社内)】
(左)吉田松陰歴史館。田松陰の生涯を、ろう人形で展示・解説している。初心者向け。
(右)花月楼。江戸時代・7代藩主毛利重就が防府市の別邸内に建築した茶室を移築したもの。
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【玉木文之進旧宅(松下村塾発祥之地】
吉田松陰の叔父(父・杉百合之助の末弟)である玉木文之進の旧宅。
松下村塾は文之進が天保13年(1842年)に近くの師弟を集め、ここで学問を教え始めたのが始まり。
邸内には松下村塾発祥の地碑が立っている。
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【伊藤博文旧宅、伊藤博文別邸】
(左)松下村塾近くにある伊藤博文旧宅。(右)伊藤博文別邸。
茅葺き平屋建ての小さな建物で、伊藤博文は、家族と共に14歳から13年間ここに住み、ここから松下村塾に通った。
栄達した伊藤博文が東京都品川区に建てた別宅の一部を、萩市の伊藤博文旧宅そばに移築したもの。
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【吉田稔麿誕生地】
松下村塾から徒歩3分程度の場所にある吉田稔麿生家跡(吉田稔麿誕生地)。
高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾四天王)と呼ばれるが、
池田屋事件により、24歳の若さでこの世を去った。
石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。
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【東光寺】
長州藩3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧・慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院・東光寺。毛利家の菩提寺で、
本堂裏の毛利家墓所には、毛利吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓がある。
墓前には藩士が寄進した多数の石灯籠が立ち並ぶ。
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【吉田松陰誕生地】
吉田松陰の誕生地は、団子岩と呼ばれる萩を一望できる風光明媚な場所。
萩藩士・杉百合之助の二男として松陰はこの家で生まれ、19才まで住んだ。
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【吉田松陰・金子重輔の像(吉田松陰誕生地付近)】
松陰誕生地近くにある、吉田松陰と金子重輔の像。
昭和48年に明治維新100年を記念して建立されたもの。
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【吉田松陰の墓、ならびに墓所】
松陰誕生地に隣接している吉田松陰、ならびに一族、松下村塾門下生たちの墓所。
(右上)吉田松陰の遺髪墓。
(左下)高杉晋作の遺髪墓。
(右下)久坂玄瑞の墓。
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【藩校・明倫館跡(現・明倫小学校)】
藩校・明倫館跡。現在は、萩市立明倫小学校となっている。
松陰は明倫館で若くして兵学教授を務めており、木戸孝允ともここで出会った。
水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ、全国有数の規模をもっていたという。
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【観徳門、有備館(明倫小学校内)】
(左)藩校明倫館の遺構で、孔子を祀る聖廟の前門である観徳門。(右)明倫館跡に現存する武道場・有備館。
旧明倫館の剣術場と槍術場を移転して拡張したもので、藩士の練習のほか、他国からの修行者の試合場ともなったという。
高杉晋作や坂本龍馬もここで試合をしたといわれている。
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【野山獄跡、岩倉獄跡】
(左)伊豆・下田で密航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられたその後、松陰が萩に送られ入れられた野山獄跡。
(右)士分でない者が投獄された岩倉獄跡。金子重輔は岩倉獄の劣悪な環境の中で絶命した。
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【高杉晋作旧宅】
萩城下町菊屋横丁にある高杉晋作生家。
見学が可能で、高杉晋作の産湯に使われたという井戸などが残る。幕末の革命児・高杉晋作はこの地で育った。
周辺は現在でも当時の城下町の雰囲気がそのまま残っている絶好の歴史散歩スポット。
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【円政寺】
(左)高杉晋作生家近くにある円政寺。
伊藤博文は11歳の頃、この寺に預けられ、また高杉晋作も子供の頃によくここで遊んだといわれている。
(右)円政寺にある大きな天狗の面。晋作が幼少時にこの天狗肝試でしに来たという逸話がある。
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【木戸孝允(桂小五郎)生家】
西郷隆盛、大久保利通と並び、維新三傑の一人と称される木戸孝允の生家。
萩藩医・和田昌景の長男として生まれた。内部は木戸に関する多数の資料が展示されている。
藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評された木戸は、
いわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかったが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けた。
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【久坂玄瑞誕生地】
松下村塾の双璧・久坂玄瑞の誕生地。
松陰は久坂を「防長第一流の人物」であると高く評価し、自分の一番下の妹・文との結婚を玄瑞に勧めている。
(その後、玄瑞は松陰の妹・文と結婚している)
高杉晋作や坂本龍馬、中岡慎太郎など多数の志士たちに大きな影響を与えた人物でもある。
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【涙松の遺址】
旧山口街道わきに建てられている「涙松の遺址」碑。
ここは萩から旅に出かける者がひとしく城下の見納めと涙する場所であり、
その地に茂る数本の往還松を人々は「涙松」と呼びならわしていた。
松陰もまた、 江戸の伝馬町牢獄へ送られる際、この地で駕篭の戸を開けてもらい、萩城下の眺めをしっかりと目に焼きつけた。
松陰は、この時「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と詠み遺している。
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【松陰記念館(萩往還公園内)】
山口と萩を結ぶ有料道路の萩出入り口に作られた萩往還公園内に建てられている松陰記念館。
吉田松陰の生き方や、人形を使った松下村塾の再現、手紙のレプリカなどを展示している。
右画像は、松陰記念館にパネル展示されている松下村塾門下生たちの貴重な写真パネル。
上段左端:広沢真臣、上段左から2人目:前原一誠、下段右から2人目:山田顕義
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【萩往還公園に建ち並ぶ吉田松陰と高晋作、久坂玄瑞の像】
松陰記念館の建物前にある、吉田松陰と松下村塾門下生たちの銅像。
(左)高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像。
(右)山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文の像。
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