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鎌倉の吉田松陰関連の史跡としては、松陰の母方の伯父が住職を務めていた瑞泉寺がある。 松陰も伯父を訪ねて幾度もこの寺を訪れている。 このページでは、鎌倉の松陰関連史跡をご紹介します。 【瑞泉寺(吉田松陰留跡の碑)】 吉田松陰は、母方の伯父にあたる瑞泉寺第二十五世住職をしていた「竹院和尚」に会いにこの寺を訪れた。 松陰が瑞泉寺を訪れたのは、寛永6年(1853年)の六月中旬のこと。その後幾度か来たという。 瑞泉寺は(ずいせんじ)は、臨済宗のお寺で、鎌倉時代に夢窓疎石を開山として創建された。 禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹(じっせつ)の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなした古刹である。 司馬遼太郎の松陰を主人公にした小説「世に棲む日々」でも、鎌倉で松陰が瑞泉寺を訪ねるエピソードを取り上げている。 【鶴岡八幡宮】 言わずと知れた鶴岡八幡宮。源頼朝以降、各時代の権力者たちに手厚く保護された。 長州藩毛利家の祖である毛利季光も鎌倉武士であった。吉田松陰も鶴岡八幡宮を訪れている。 【法華堂跡・源頼朝の墓】 源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂(頼朝が信仰し礼拝した仏像を安置しておく建物)があった場所。 頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、この場所に葬むられていたという。鎌倉幕府の保護も厚く永く崇敬を集めた。 法華堂跡の石碑には、上部にある源頼朝の墓(右写真の五輪塔)は、安永8年(1779年)に島津重豪が建立したものとある。 【長州藩毛利家の祖・毛利季光の墓】 毛利季光は、大江広元(後述)の四男で、 相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を領有していたことより、「毛利」姓を名乗ることとなったという。 戦国時代の中国地方の雄であった「毛利元就」は、この季光の子孫となり、長州藩主・毛利家へと繋がっていくこととなる。 毛利季光は、承久の乱の際にも活躍を見せ、評定衆にもなり、鎌倉幕府の幕政に深く関わるものの、 1247年「宝治合戦」の際には、三浦泰村の妹を妻としていたことから、 三浦一族に味方をし、頼朝を祀る「法華堂」にて、三浦一族と共に自決した。 なお、「毛利季光」の墓は、元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、 後年毛利家によって、現在の地に移されたという。 大江広元、毛利季光、島津忠久の墓が横一列で並んでおり、向かって左が毛利季光の墓。 【薩摩藩島津家の祖・島津忠久の墓】 建久3年、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年、薩摩・大隅・日向の三国の守護に任じられた薩摩藩島津家の祖・島津忠久の墓。 「島津(惟宗)忠久」は、惟宗忠康(異説あり)と丹後内侍の子。 母の丹後内侍が源頼朝の乳母である比企局の娘であることから、 頼朝の信頼も厚く、薩摩、大隈、日向(現在の鹿児島・宮崎県)の守護職となった。 この島津忠久に対する厚遇ぶりには、実は源頼朝のご落胤だからという説がある(一般に言う俗説)。 島津斉彬の父であり蘭癖(らんぺき)大名として有名な薩摩藩主「島津重豪」が 「源頼朝」と「島津忠久」の墓を整備したが、このような背景があるからである。 大江広元、毛利季光、島津忠久の墓は横一列で並んでおり、向かって右が島津忠久の墓。 「大江広元」、「島津忠久」の墓は、江戸時代に出来たが、奇しくも幕末に薩長同盟を為した「薩摩」と「長州」の祖の墓が、 こうして並んでいるというのも不思議な因果を感じさせる。 【大江広元(毛利季光の父)の墓】 大江広元は、毛利家の祖となった毛利季光の父であり、源頼朝による鎌倉幕府で頼朝の側近として辣腕をふるった政治家。 「大江広元」は、頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の政所別当として活躍し、草創期の幕府を支えた人物。 文政6(1823)年に長州藩家老村田清風が毛利季光の墓と共に整備したもので、 別の場所(十二所の明王院の裏山)にも大江広元の墓と伝えられるものがあり、そちらの墓がもともとあった本物の墓と言われる。 大江広元、毛利季光、島津忠久の墓が横一列で並んでおり、中央が大江広元の墓。 吉田松陰の足跡をたどる旅(萩、下田、東京、下関)ページへ その他の史跡はこちら! 【吉田松陰に関する史跡データベース】 吉田松陰.comトップページへ |
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