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山口県下関は、松下村塾の双璧で、松陰の愛弟子・高杉晋作に関する史跡が数多く点在している場所です。
このページでは、関門海峡と幕末ロマンの地・下関にある高杉晋作関連史跡をご紹介します。
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【東行庵、東行記念館】
「東行庵」は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺にあたる。
もともとは、清水山と称し山縣狂介(有朋)が麓に草庵を建て「無隣庵」と名付けていた。
慶応3年、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬られると、
晋作に仕えていた愛人おうの(後に谷梅処)は黒髪を落とし出家。
山縣は明治2年に無隣庵を谷梅処に贈り、谷梅処は生涯、高杉晋作の菩提を弔い続けた。
現在の庵は明治17年、伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもの。
東行庵敷地内には東行記念館があり、晋作の遺品、遺墨などの資料が収蔵・展示されている。
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【高杉晋作像、高杉晋作顕彰碑(東行庵内)】
東行庵敷地内にある高杉晋作の陶像(日和山公園にも同じような高杉晋作の陶像がある)。
右画像は高杉晋作顕彰碑。有名な伊藤博文による高杉晋作顕彰碑の碑文
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」
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【高杉晋作の墓(東行墓)、おうの(谷梅処)の墓】
東行庵にある高杉晋作の墓(東行墓)、おうの(谷梅処)の墓
慶応3年に死去した高杉晋作の遺骸は、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。
高杉晋作(号「東行」(とうぎょう))の愛人おうのは、晋作の死後、尼となって(谷梅処(たにばいしょ)と改名)、
その墓を守り、菩提をとむらうようになった。はじめは山形有朋が住んでいた吉田の無隣庵(むりんあん)を僧堂にあてていたが、
明治17年に山形有朋・伊藤博文・井上馨らの寄付によって、無隣庵の隣接地に、現在の東行庵が建立された。
おうのは明治四十二年にその生涯を閉じるまで生涯、東行の菩提を弔い続けた。
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【奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地(東行庵内)】
東行庵敷地内にある奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地。
維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは、10代、20代の青年だったので、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かった。
これを嘆いた東行庵三世谷玉仙羽が、墓地を開き各地から隊士の墓を集め、供養した。
右画像は、第三代奇兵隊総管・赤祢武人(あかね たけと)の墓。
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【国宝・功山寺】
高杉晋作、一世一代の大博打!功山寺挙兵(回天義挙)の舞台・功山寺。
仏殿は、鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
高杉晋作による功山寺挙兵の勝利・成功により、長州藩の藩論は倒幕に統一されることとなり、まさに維新の原動力となった。
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【高杉晋作「回天義挙」像(功山寺内)】
功山寺内にある「高杉晋作回天義挙像」。
これから戦いに臨もうとしている馬上の高杉晋作の姿が、躍動感豊かに表現されている。
「これから長州男児の肝っ玉をご覧にいれます!」五卿の前で言い放ったという晋作の声が聞こえてくる。
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【関門海峡にある壇ノ浦砲台跡】
関門海峡の壇ノ浦砲台跡に復元された長州砲。
文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。
翌年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の報復攻撃に受け、壇ノ浦砲台は壊滅、大敗。
外国の軍備を思い知った長州藩が、開国倒幕へと転換する契機となった。
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【高杉晋作終焉の地】
高杉晋作終焉の地碑。
慶応3年、新地の庄屋・林算九郎邸の離屋があったこの地で、高杉晋作は肺結核により、27年8ケ月の短い生涯を閉じた。
明治維新が成るわずか2か月前の出来事だった。
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【桜山神社、招魂墓】
元治元年(1864年)高杉晋作の発議によって創建された桜山招魂場が、現在の桜山神社のはじまり。
招魂社としては日本で最初のものと言われている。
吉田松陰から奇兵隊の名もない者にいたるまで同様に祀られており、整然と立ち並ぶ多数の霊標の姿は、まさに圧巻!
右画像の中央が、吉田松陰の招魂墓。その左右には、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の招魂墓が並ぶ。
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【金麗社(山口県美祢市)】
大田・絵堂の戦いで、奇兵隊や諸隊が本陣を置いた山口県美祢市にある金麗社。
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【大田・絵堂戦跡記念碑(山口県美祢市)】
功山寺決起の後、俗論派と正義派(倒幕派)が衝突した大田・絵堂の戦い激戦地跡。
現在は石碑と説明文があるのみ。
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