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高杉晋作(幕末の革命児)

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吉田松陰から高杉晋作への手紙を読む
吉田松陰の名文・手紙を読む

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高杉晋作奇兵隊を率い、幕末期長州藩を倒幕の方向に決定付けた革命児・高杉晋作。
長州が倒幕に傾いたことにより、歴史が大きく動き出した。

萩城下町菊屋横丁にある高杉晋作生家
(上)萩城下町菊屋横丁にある高杉晋作生家。

山口県萩市城下町にある高杉晋作の生家 高杉晋作誕生の際、産湯に使用された井戸
(左)高杉晋作生家の入り口。
(右)生家内にある高杉晋作の産湯に使われたという井戸。

高杉晋作生家外観
(上)高杉晋作生家外観。
高杉晋作生家内部の様子
(上)高杉晋作生家内部の様子。

円政寺にある大きな天狗の面。 高杉晋作と伊藤博文が遊んだという木馬
(左)円政寺にある大きな天狗の面。晋作も肝試しに来たという。
(右)高杉晋作と伊藤博文が幼少期に遊んだという木馬(神馬)。

壇ノ浦砲台跡
関門海峡にある壇ノ浦砲台跡。
文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を
5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。翌年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の報復攻撃に受け、壇ノ浦砲台は壊滅、大敗した。
外国の軍備を思い知った長州藩が、開国倒幕へと転換する契機となった。


高杉晋作終焉の地
山口県下関にある高杉晋作終焉の地。

愛人・おうのが暮らした東行庵
高杉晋作の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬った。
愛人・おうのは出家し生涯、晋作の菩提を東行庵で弔った。


桜山招魂場(桜山神社)
元治元年(1864年)高杉晋作の発議によって創建された桜山招魂場。
招魂社としては日本で最初のものと言われている桜山神社。(山口県下関市)。


吉田松陰の隣に建つ高杉晋作の招魂墓
吉田松陰の隣に建つ高杉晋作の招魂墓(下関市・桜山神社)。




高杉 晋作たかすぎ しんさく)

天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日)諱(本名)は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。

長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士 高杉小忠太・みちの長男としてうまれる。高杉家は戦国時代毛利家中興の祖・毛利元就からの家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門。父、祖父は藩の重要な仕事に就いてきたこともあり、高杉家の武士としての誇りを持って育っていった。

弘化3年(1846年)8歳の時に寺子屋・吉松塾に入り、後に晋作と共に松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞(年齢は晋作の1歳下)と出会う。嘉永5年(1852年)藩校の明倫館に入学、安政4年(1857年)に久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う。

ペリー来航時に黒船の艦隊に乗り込み密航を企てるなど国禁を犯していた松陰を晋作の家族は快く思っていなかったが、単なる知識ではなく、物事を実践する知識として教えていく松陰に晋作は引き込まれていった。松陰の下で一心不乱に勉学を始め、「人物・高杉晋作」が形成されていった。

その後、藩命で江戸へ遊学。大橋訥庵塾、昌平坂学問所(当時の最高学府)で学ぶものの、晋作は久坂玄瑞への手紙で「江戸の学問は面白くない」と記している。その間、松陰は間部詮勝要撃計画の罪により、江戸小伝馬町の牢に投獄されており、奇しくも江戸で晋作は松陰の世話をしながら師との対話を行なった。

ある時、晋作は牢に囚われている松陰に手紙を出し、「男子たる者の死」について質問している。それに対し松陰は書簡でこう返答した。

【吉田松陰の高杉晋作宛書簡】
安政六年七月中旬 松陰江戸獄  高杉江戸。

死は、好むべきでも憎むべきものでもない。人としての道を尽くしたならば自然と心も落ち着いてくる。この時が死ぬ時である。また、世の中には、身は生きていても心が死んでいる人があり、身は亡んでいても魂が生きている人がある。心が死んでいれば生きていても益はなく、逆に魂があれば亡んでも損はない。死んで名声が永久に亡びないのであれば、いつ死んでも良い。また、生きて大業を成す見込みがあれば、いつまでも生きるべきである

手紙全体の現代語訳はコチラ!

松陰が晋作に送った死生観に関するこの手紙が、後の晋作の生き方に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。

安政6年(1859年)藩命により、萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、江戸を出発。その10日後、松陰の死罪が決定し、その日のうちに刑が執行されてしまう。

予期しなかった師・松陰の死に、悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、倒幕を心に誓い、歴史のうねりの中に自らの身を投じていくこととなる。
(安政6年(1859年)11月26日、長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している)

文久2年(1862年)5月には藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情を見聞して帰国。

文久2年(1862年)12月12日には同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。行動の過激の度合いを強めていく。

文久3年(1863年)5月10日、関門海峡において外国船砲撃。6月に廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる。

文久4年1864年8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う。

文久4年(1864年)12月、幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派(佐幕派)が台頭。功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩論を倒幕に統一することに成功する。

慶応2年(1866年)1月、桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結。

慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功。同年7月、将軍徳川家茂の死去の報を受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱。事実上幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜し、1867年11月の大政奉還へと導かれる事となる。

戦い続けた晋作の身体は、その間、病に冒されていた。肺結核のため桜山で療養し回復に努めるも、慶応3年(1867年)4月14日深夜に死去。大政奉還を見ずしてこの世を去ることとなる(享年27)。松陰の教えを実行し、時代を駆け抜けた太く短い一生だった。

【高杉晋作辞世の句】
おもしろき こともなき世を おもしろく

下の句を看病していた野村望東尼(勤皇の歌人)が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。


【高杉晋作顕彰碑文】
動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、 衆目駭然、敢て正視する者なし。 これ我が東行高杉君に非ずや・・・

(一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。それこそ我らが高杉さんのことだ)後年、伊藤博文が高杉晋作顕彰碑に記した言葉。










国宝・功山寺
晋作一世一代の大博打!功山寺決起の舞台。国宝・功山寺(山口県下関市)。

大田・絵堂の戦い激戦地跡
功山寺決起後、俗論派と正義派(倒幕派)が衝突した大田・絵堂の戦い激戦地跡。

奇兵隊や諸隊が本陣を置いた山口県美祢市にある金麗社
大田・絵堂の戦いで、奇兵隊や諸隊が本陣を置いた山口県美祢市にある金麗社。

功山寺の末寺・東行庵にある高杉晋作が眠る墓(東行墓)
功山寺の末寺・東行庵にある高杉晋作が眠る墓(東行墓)。下関市吉田。

東行庵にある愛人・おうの(谷梅処)の墓
東行庵にある愛人・おうの(谷梅処)の墓。明治42年に亡くなるまで晋作を弔った。

高杉晋作顕彰碑
後年、伊藤博文が高杉晋作を顕彰した顕彰碑(東行庵)。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」


師である吉田松陰の墓の後ろに、師を見守るようにある高杉晋作の墓
(上)師・松陰を見守るようにある高杉晋作の遺髪墓(山口県萩市)。

功山寺決起の高杉晋作挙兵像(功山寺内)
功山寺決起の高杉晋作挙兵像(功山寺内)。

東行庵にある高杉晋作像
東行庵にある高杉晋作像。


(上)高杉晋作自筆の書。
下関・日和山公園にある高杉晋作の銅像
(上)下関・日和山公園にある高杉晋作の像

喋る高杉晋作(Photospeakにて作成)
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「幕末の長州藩で百姓・町人なども動員して奇兵隊を作り、幕府軍をみごと打ち破る。高杉晋作は、六篇の日記を残している。そこには―江戸への航海記、東国での武者修行の旅、小姓役として若殿様に仕える日々、そして幕府貿易視察団に加わり上海に滞在して目にした欧米列強の力、のちに藩命に反したとして牢に繋がれた波乱と革新の生涯が描かれている。それを現代語でよみがえらせた」。
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「幕末の長州藩を縦横に走り回った高杉晋作は、時代を大きく旋回させて惜し気もなく舞台から去って行った。享年二十九―。一方で晋作は、厖大な手紙や日記、詩歌草稿を残している。手紙の相手は父母をはじめ、吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)ら、多岐にわたる。その行間からは幕末を生きた人間の生の息吹が伝わってくる」。
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「わずか二十八歳の若さで燃えつきた高杉晋作は、歴史の上になにを遺したのだろうか。小説やドラマに描かれた虚像ではなく、晋作が折々に詠んだ詩を飛び石づたいに、その壮烈な生涯とどのようにかかわったか、その実像にせまる」。


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