吉田 稔麿(よしだ としまろ)
天保12年閏1月24日(1841年3月16日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))。名は栄太郎。文久3年(1863年)23歳の時に稔麿と改名。高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾 四天王)。
吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれる。安政3年11月、松陰主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き、門下生となる。松陰主宰初期の松下村塾入塾生であり、松陰が特に親愛の情を示した稔麿には「無逸」という字(あざな)が付けられ、同じく「無」がつく字を付けられた増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われる。
無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」「久坂玄瑞の才能は自由自在で妨げるものは何もない。高杉晋作は陽頑、つまり頑固さが表に出るが、稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない」と高く評価した。
安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師の元を離れる。(翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている)その後、松陰は処刑される。
松陰死後も、暫く志士としての活動を控えていたが、万延元年(1860年)10月に脱藩、文久2年(1862年)京で行なわれた松陰の慰霊祭に参加する。
文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月には「屠勇隊」を創設。8月の朝陽丸事件(幕府の軍艦を襲撃)では始末を任され、烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で池田屋に稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。 しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死にする。
最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。
また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もあり、稔麿の最期については諸説ある。
享年24。
いずれにしろ、これから志士としての活躍が期待された人物であった。本人も無念であったに違いない。
(上)松下村塾講義室。他の門下生と共に稔麿もここで学んだ。 |
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