山縣 有朋(やまがた ありとも)
天保9年(1838)に長州藩の蔵元附中間(ちゅうげん:足軽より低い身分)・山県三郎有稔の二男として生まれる(幼名・辰之助)。
尊皇攘夷派の影響を受け、久坂玄端の紹介で松下村塾に入門、生涯師と仰ぎ続けた吉田松陰と出会う(山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた。また、生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていた)。
文久3年(1863年)に、上海に渡航した高杉晋作に代わって奇兵隊軍監として大いに活躍。元治元年(1864年))の四国連合艦隊との交戦で負傷した際、武器と兵制の改革の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に転じた。
慶応元年(1865年)、長州藩の俗論派(佐幕派)と正義派(倒幕派)が激突した大田・絵堂の戦いでは、正義派に奇兵隊軍艦として参戦。長州藩藩論を倒幕へと決定づけたこの戦いの勝利に貢献した。
明治元年の戊辰戦争には、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡攻略戦に河井継之助らと戦う(苦戦)、後に会津攻略にも参加。
明治2年(1869年)渡欧し、各国の軍事制度を視察し、翌年帰国した後は暗殺された大村益次郎の遺志を継いで軍制改革を行い、徴兵制を取り入れた。明治6年(1873年)に陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に深く関わる。(良くも悪くも日本陸軍の実質的な建設者が山県有朋であるといえる)
明治22年(1889年)に第9代内閣総理大臣に就任。軍備拡張を進める。明治31年(1898年)、第2次山縣内閣発足。参謀総長、枢密院議長なども務めている。
伊藤博文なきあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなし、首相選定の主導権を握る。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。
当時の国民、政治家、皇室からはことごとく不人気であったが、昭和天皇は軍人・山県有朋を評価している。大正11年、85歳で亡くなった。
長州藩・俗論派(佐幕)と正義派(倒幕)が衝突した大田・絵堂の戦い跡地。
大田・絵堂戦跡記念碑。
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