山田 顕義(やまだ あきよし)
弘化元年(1844)に萩藩士・山田七兵衛の長男として生まれる。
藩校明倫館に学んだ後、安政5年15歳の時に松下村塾に入門、吉田松陰に師事する。松陰にとって最年少の門下生だった。
文久2年12月、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねる。その後、長州藩の内乱に参戦するなど倒幕の志士として数々の戦いに参加。
元治元年、蛤御門の変(禁門の変)に参陣。山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わり参戦。
同年8月、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の下関攻撃(馬関戦争)で奮戦する(長州藩敗北)。
同年12月、対幕恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の奇兵隊による決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、藩内の「俗論派(佐幕派)」を排除し藩論を倒幕に統一する。
慶応4年1月には「鳥羽・伏見の戦い」、「戊辰戦争」に加わり、「箱館戦争」時には陸軍参謀兼海陸軍参謀として、官軍を勝利に導いた。
維新後、明治7年に江藤進平らが起こした「佐賀の乱」、明治10年に西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参加し、いずれも鎮圧。その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評された。
明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。
明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。
また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立、その後公私法律学校を育成した。
明治25年帰郷途中、生野銀山で急逝。享年49歳。
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