吉田寅次郎が名乗った「松陰」と「二十一回猛士」の由来
号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号のことで、文人たちが好んで使用したもの。吉田松陰の諱は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎だが、「松陰(しょういん)」と「二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)」の号のほうがよく知られている。
では、「松陰」と「二十一回猛士」の由来は何なのか?
一番有名な号である「松陰」は、吉田松陰が尊敬していたという江戸時代後期の思想家・高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からとったものだと言われている。(松下村塾同様に、松陰の出生地・松本村にちなんでいるとの説もある。あるいは、両方に由来しているのかもしれない)
嘉永4年、江戸遊学中の松陰(当時はもちろん松陰とは名乗っていない)は、水戸学の代表的思想家・会沢正志斎が著した「高山彦九郎伝」で高山彦九郎の存在を知り、大きな感銘を受けたという。
高山彦九郎という人物は、林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」(ここでいう「奇人」は、「優れた、傑出した人物」という意)と言われる人物で、松陰が生まれるより50年近く前の江戸時代後期を生きた先駆的な尊皇思想家。全国をくまなく遊歴し、様々な人物と交流する中で勤皇思想を説いた。
松陰が兄に「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と高山彦九郎のことを書き送っていることや、後に書くこととなる辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、高山彦九郎の辞世の句「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との類似、松陰門下である高杉晋作や久坂玄瑞、久坂玄瑞を通じて吉田松陰を心の師と仰いでいたという中岡慎太郎が、細谷村(現在の群馬県太田市)にある高山彦九郎の墓を訪ねていることを考えると、松陰の中で高山彦九郎の影響が非常に大きかったであろうことは想像に難くない。
(群馬県太田市にある高山彦九郎記念館の学芸員の方によると、「『松陰』の号が高山彦九郎の戒名『松陰以白居士』からとったものだという確定的な資料的根拠はない」とのことだが、「吉田松陰が高山彦九郎を知った時期と『松陰』という号を使い始めた時期が重なることや、辞世の句の類似などから考えると、その可能性が高いと推定される」とのこと)
それでは、もうひとつの号である「二十一回猛士」の由来は何か。
吉田松陰が自分の人生の中で二十一回全力で物事にあたるという決意を表した号で、二十一回という数字に関しては、吉田松陰の姓である「吉田」から来ている。
「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると「口」と「十」になる。 これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、
「口」と「口」をあわせて「回」になる。また、松陰の実家の姓である「杉」の字を分解し「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、 合算すると、これもまた「二十一」になる。
「猛士」というのは、松陰の通称が寅次郎であり、「寅=虎」であり、「虎の徳性は猛である」ことにちなんで、「猛士」とした。自分の二つの姓「吉田」と「杉」とを引っかけた回数「21回」は必ず、猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行するんだという、松陰の並々ならぬ決意を感じさせる号だと言える。(安政元年に書かれた「二十一回猛士の説(現代語訳はコチラ)」のなかで、松陰はこれまでに@東北旅行のための脱藩したこと、A藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、藩主に意見具申したこと、Bペリー来航時の密航「下田渡海」、の3回「猛」を発したとの考えを示している)
高山彦九郎邸宅跡近くにある高山彦九郎記念館。
明治12年(1879年)天神山(群馬県太田市本町)に高山神社が創建され、
以来、高山彦九郎は祭神として祀られている。
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