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松陰が江戸へ送還される際、皆と別れたとされる場所
涙松の遺蹟説明文
萩・松陰神社内にある「親思う心にまさる親心・・・」句の石碑
東京・十思公園内にある「松陰先生終焉之地」石碑。
東京・十思公園内にある「松陰先生終焉之地」石碑。
松陰と同じく、安政の大獄で処刑された橋本佐内のお墓。
東京・小塚原回向院の吉田松陰の墓のすぐ隣にある。
処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」冒頭部分。
高杉晋作、久坂玄瑞以下、全ての門下生達に向けて書かれた魂の遺書。
松陰の死、そして「留魂録」は松陰の意思を継ぐ同志達のバイブルとなり、
長州藩志士達の倒幕への大きな原動力となった。
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吉田松陰の最期
安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなった。松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士。安政の大獄で逮捕者第一号となった人物)が萩で松陰に会った事を話したためだった。
江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点であったが、松陰の主張は受け入れられた。そこで、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。この時、松陰の命運は決まった。
評定所の役人の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記した(「留魂録」は、門下生達によっていくつも複写され、志士たちのバイブルとなる)。
安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳という若さであった。
死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に、首切り役の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧した。
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
維新の先駆者となり、その死を持って門下生達へと強烈に引き継がれた松陰の想い、志は、後の世で大きく花開くこととなる。
私は今、国の為に死ぬ。
死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を
尽くして、道に反することはない。
天地は永遠で果てしなく広い。
神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい。
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東京・小伝馬町駅近くにある江戸伝馬処刑場跡。
多数の人たちが斬首刑に処された場所。
江戸伝馬処刑場跡に建てられている大安楽寺。
安政の大獄により、吉田松陰や橋本左内など大勢の志士がこの場所で処刑された。
大安楽寺の真向かいにある十思公園。
付近一帯が伝馬町牢屋敷であった。
現在はのどかな公園となっているが、心霊スポットという側面もある。
東京・小塚原回向院にある吉田松陰のお墓。
松陰の遺体は斬首されてから、弟子たちの尽力によりここに葬られた。
後に門弟たちによって現在の松陰神社に改葬されるまでのお墓で、
現在は墓石のみが残る。「松陰二十一回猛子墓」と刻まれている。
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江戸時代、幕府の御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し切り役
を務めていた山田家の当主が代々名乗った名である「山田浅右衛門」。
第7代・吉利は、安政の大獄の際、吉田松陰や橋本左内を
斬首した人物として知られる。その人物のお墓。
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第7代山田浅右衛門吉利の墓は東京新宿区の勝興寺にある。
松陰が浅右衛門に首を斬られたその最期の態度は、
実に堂々たるものであったと浅右衛門は後年語っている。
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安政の大獄を断行した井伊直弼が眠る豪徳寺(東京・世田谷)。 |
井伊直弼の墓。井伊の墓は、松陰が眠る松陰神社近くの豪徳寺にある。 |
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