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藩校・明倫館跡。現在は明倫小学校になっている。
明倫館に併設された武道場・有備館
吉田松陰と金子重輔の像(山口県萩市)
密航しようと静岡・下田に来た際、吉田松陰と金子重輔が宿泊した宿・岡村屋跡
(現・下田屋)。皮膚病を患っていた松陰はこの宿の主人に近くの蓮台寺温泉を
紹介され、湯治に向かったという。
静岡・蓮台寺温泉にある村山行馬郎邸。当時のままの姿を残しており、
静岡県指定史跡「吉田松陰寓寄処」として公開されている。
村山行馬郎邸の二階部分にあたる部屋。通称「松陰隠れの間」。
松陰の密航計画を打ち明けられた村山行馬郎が松陰を匿った部屋。
松陰は昼は二階に隠れ、夜は海岸に出て黒船の様子を窺ったという。
海上から見た柿崎・弁天島。
ここから吉田松陰と金子重輔は、米艦ポーハタン号へ小舟をこぎつけた。
柿崎・弁天島にある弁天社。
松陰と金子重輔はこの祠に身を隠して密航を試みた。
弁天島から望む伊豆・下田の海。
乗艦を拒否された松陰と金子が送り返された場所・福浦海岸。
吉田松陰上陸の石碑が建てられている。
伊豆・下田の海を見つめる吉田松陰像(三島神社内)。
金子重輔が投獄され絶命した萩の岩倉獄。
右の碑は金子重輔絶命の碑。
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吉田松陰の青年期(脱藩・下田踏海)
21歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、遊学許可が下りることになった松陰。嘉永3年(1850年)8月、松陰は見聞を広め自分を高めるべく九州遊学の旅に出た。
平戸、長崎、熊本と旅を続け、山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵など様々な人物に会い見識を深めていった。中でも熊本藩の名士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)とは、国の防衛などについて意気投合。宮部は、松陰より10歳以上年上であったが、生涯の親友となった(後の江戸遊学時に再会、東北旅行にも同行した。宮部鼎蔵は松陰死後、勤皇の大物志士として京都で活躍したが、池田屋事件で新撰組に急襲され自刃した)。
嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して江戸にも遊学。佐久間象山に出会う。同年12月には、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画するが、なかなか藩からの関所通過書(身分証明書)が届かない。「友との約束は破れない」という一点において、松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。
脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸(茨城)、会津(福島)、弘前(青森)などを訪れ視察。江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。脱藩の罪により藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下におかれることとなった松陰であるが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。そして、2度目の江戸遊学へ。佐久間象山に師事する。
江戸での遊学中、嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航(いわゆる黒船来航)。浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚える。西洋列強各国から日本を守るためには西洋先進国を知ることである。松陰は、海外渡航を決心した。
ペリーが去ってから一ヶ月後、プチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かったが、着いたときには艦隊は出航した後だった。再び江戸にもどった松陰はそれでも密航をあきらめない。
嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる(松陰個人と師弟関係を結んだのは、この金子重之助が一番最初ということになる)。
松陰と金子重輔はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗。最後には、下田に移動したペリーの船に、夜間、小舟をこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶。松陰の密航計画はまたしても失敗した。(その時、松陰たちが手渡した「日本国江戸府書生・瓜中萬二(松陰
の偽名)、市木公太(同行した金子重輔の偽名)、呈書 貴大臣各将官執事」との書き出しから始まり、「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」などと訴えている意の手紙が米国で発見されている)。
松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される(その後、金子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で25歳という若さで病死、松陰は金子の死を深く嘆き悲しんだ)。
野山獄に投獄された松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始める。これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。また、後に松下村塾の助教授となる富永有隣とも野山獄で出会った。吉田松陰の教えの原点は、牢獄の中にあったと言えるかもしれない。
蓮台寺温泉にある吉田松陰が湯治した村人たちの共同湯。
ここで入浴していた松陰を向かいの家の主人であった医者・村山行馬郎が匿った。
(この共同風呂は、現在も地域の人以外は入浴できない)
匿われた吉田松陰が数日間寓所した医者・村山行馬郎邸の内部。
建物も当時のまま。松陰が使用した机や硯(すずり)なども展示されている。
吉田松陰が入浴した村山行馬郎邸の風呂場。
「吉田松陰寓寄処」は当時のままの姿を残す最高の松陰スポットと言える。
弁天島付近にある「吉田松陰・金子重輔踏海企ての跡」の説明文。
西暦1854年4月24日の夜の出来事であった。
弁天島にある吉田松陰の七生説の碑・金子重之輔の顕彰碑。
展示されている小舟。松陰たちもこのような小舟で黒船に近づいたのだろうか。
密航に失敗し自首した吉田松陰と金子重輔が拘禁された宝光院長命寺の跡地。
現在、長命寺は廃寺となっており、同地には下田市立中央公民館が建っている。
弁天島付近に建てられている吉田松陰と金子重輔の像「踏海の朝」。
松陰が投獄された萩の野山獄(武士の身分の者が入れられた)
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茨城・水戸の弘道館跡。弘道館は、水戸藩の藩校として創設された。
東北行の際、松陰は弘道館、偕楽園などを訪れている。 |
脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸を訪れ視察。
尊王攘夷思想の源流とも言える「水戸学」は、
橋本左内、西郷隆盛ら多くの幕末志士に多大な影響を与えた。
松陰も水戸で1カ月ほど滞在し、その思想に大きな影響を受けた。
松陰は、弘道館教授頭取を務めた会沢正志斎を訪ねた際のことを、
「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。
水府の風、他邦の人に接するに歓待甚だ渥く、
歓然として欣びを交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。
会々談論の聴くべきものあれば必ず筆を把りて之を記す。
其の天下の事に通じ天下の力を得る所以か」と記している。 |
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