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吉田松陰 松下村塾主宰


国指定史跡・松下村塾の説明文
国指定史跡・松下村塾の説明文

松下村塾外観
松下村塾外観

松下村塾の講義室全景
松下村塾の講義室全景

松下村塾の講義室
松下村塾の講義室

松下村塾看板と入り口
松下村塾看板と入り口

裏手から見た松下村塾
裏手から見た松下村塾



松下村塾主宰


 松陰教育の原点となった野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月が経ち、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻る。

出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開。幽囚室での「孟子」講義は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていくこととなる。

その頃、松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいた。松陰の幽囚室での講義に久保五郎左衛門が聴くようになると自然と松陰が塾の主となる。当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え杉家の納屋を塾舎に改修。ここに世に有名な松下村塾が誕生した。その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになった(松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた)。

松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎない。しかし、その短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。

松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。脱藩や密航を試みるなど、実行に実行を重ねる松陰であったからこそ、若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていった。

(松陰の教育を受けた門下生達は、後に京都で志士として活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たすことになる。久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿、入江九一、伊藤博文山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など枚挙に暇がない)

松陰は門下生達に行動を説く一方で、自ら行動することも止めなかった。幕府の老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、松陰は激怒。間部詮勝要撃計画を実行しようと萩に残る塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩を驚かせた。

結果的にこの行動が、藩にとって危険なものとして松下村塾の閉鎖を命じられ松下村塾は閉鎖に追い込まれることとなり、松陰は再度、野山獄に入れられることになった。そして、その後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届いた。



国指定史跡・吉田松陰幽囚の旧宅説明文
国指定史跡・吉田松陰幽囚の旧宅説明文


吉田松陰が幽囚された旧宅から松陰主宰の松下村塾は形成されていった。
吉田松陰が幽囚された旧宅から松陰主宰の松下村塾は形成されていった。

杉家旧宅(松陰が幽囚の身となり過ごした旧宅)
杉家旧宅(松陰が幽囚の身となり過ごした旧宅)。
松陰は生家である杉家の家族からの愛を一身に受けて育った。



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