吉田松陰の死、それから
松陰の死を知った高杉晋作はこの時の悲憤の思いを藩の上役・周布政之助に宛てた手紙で次のように述べている。「ついにわが師は幕吏の手にかかって殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです」。高杉晋作が倒幕への決心を固めた瞬間である。
万延元年(1860)2月7日、松陰が亡くなって百日目、親戚・門人が集まり故人の霊を弔い、萩に遺髪を埋葬している(表には「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている)。門下生達の想いも高杉晋作と同じであった。門下生達は松陰の死によって、倒幕という一つの目標に向かって歴史の波に身を投じていくことを決意する。幕府によって大罪人とされた人物・松陰の墓に17名の塾生たちが「弟子である」と、公然と名前を刻んでいる。
(松陰の墓は現在、全国に4か所存在する。斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った、東京・小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。後に小塚原回向院から改葬した東京・松陰神社内の墓(遺骸は現在ここに眠っている)。山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の招魂場。多数の志士の中でも一段高く松陰の招魂墓が作られている)。)
その後、歴史はうねり、高杉晋作ら門下生達の活躍により、明治維新は成った。明治政府においても松下村塾出身者は、内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名など現在の日本に続く数々の功績を数多く残すこととなった。
現在、山口県萩市の松下村塾があった付近に、学問の神として崇敬を集める神社として「松陰神社」が存在する。また、東京都世田谷区にも高杉晋作など松陰の門人によって改葬された墓所の場所に松陰神社がある。
萩にある松陰神社
門下生達が祭られている松門神社(萩・松陰神社内)
東京・松陰神社内にある吉田松陰が眠る吉田松陰の墓。
写真の鳥居は木戸孝允が寄進したもの。
東京・松陰神社内にある松陰が眠る正真正銘の吉田松陰の墓。
山口県下関・桜山神社(桜山招魂場)にある松陰の招魂墓。
東京都千代田区にある靖国神社。
吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、
橋本左内、大村益次郎などの幕末志士たちも維新殉難者として
国の為に散った多数の戦没者たちとともに合祀されている。
東郷平八郎と共に日露戦争の英雄とされ、高潔な人格者として名高い
長州藩出身の乃木希典大将を祀った乃木神社(港区)。
その境内には、乃木大将の人格形成に大きな影響を与えた玉木文之進と吉田松陰が
祀られている「正松(せいしょう)神社」がある。
萩の松陰神社から二柱の分霊を請い受け、摂社として境内に鎮守されている。
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